「心の時代」と言われて久しいが、
もうそれは死語となってしまったのだろうか?
そして今は何の時代と呼ぶのだろう?
でも僕的には、時代、時代に「心の友」は現れる。
その人自身が気付いているか否かは問題ではない。
此方の過剰な思い込みもあるのかも知れない。
でも、相思だと分かった時は、何増倍もの歓びになる。
これは僕の変わらぬ習性なのだろうが、
いつも遠くから見ている。
距離の問題ではない。
心は、テレパシーは、
はるかな距離を凌ぎ時空を超えて突き刺さる。
それを実感、体感した時の歓びは、何物にも代えがたい。
ひとは僕を「掴み所のない奴」と言う。
それはむしろ僕にとっては褒め言葉だ。
個としての僕は、
唯一無二の個としての対象者が存在すれば、
それで大満足なのだから。
時代は巡る、回転軸が揺さぶられる。
手を繋ごう。
心の絆を離すまい。
やがてそれは相手の心に明確な明かりを灯す。
放送部の後輩の彼女は二学年下だった。
明るくハキハキと話す快活な子だったが、
たしか心臓に病を抱えていたと記憶している。
家も近所だった。
過去のブログ
〇書いてさえ虚しいのに、書かなかったら、もっと虚しい。
つまり虚しさも感じないほどむなしい晩年になる。
自分の書いたものを、いつまでも握って出さずにいると、
精神的な便秘になる。それ故次への展開がきかない。
ところが出すとかえって執着がなくなる。だから思い切って
出すんですね。たとえ人からどう言われようと、かまわんじゃ
ありませんか。結局は自己の執着を断つために出すんですから。
森 信三