山陰の松江から京都に脱出?してきたのが二十歳の時だった。もちろん組織の追
っ手はいたのだが、僕如き下っ端人間は、それほどの執拗な追跡は無かった。叔母
の家での生活が落ち着いた頃、僕はあるコンサートに出かけた。西岡たかしと五つ
の赤い風船。
リーダーの軽妙な喋りも楽しかったが、僕は紅一点の<藤原秀子>の歌声に魅了さ
れた。なんとも奥深いと言うか、哀愁が漂う歌声と言うか・・・。感動した。
♪遠い世界に旅に出ようか
それとも赤い風船に乗って
雲の上を歩いてみようか
太陽の光で虹を作った
お空の風をもらって帰って
暗い霧を吹き飛ばしたい
僕より二つ年上の彼女も10年前に亡くなっている。
あれからもう半世紀以上、時が経過している。不思議なもので、つい口ずさむ
歌がこれだったりする。
様々な自己紹介欄に書いている通り、
「人生はいつも青春 いつも心のさすらい」
傍から老人視される男の心の片隅で、青春の名残の灯が
チロチロと燃えている。
あの頃の日記帳になんとも稚拙な詩がある。
♪あの雲の向こう
あるという泉
忘れ得ぬひとに
巡り合いたい
どうぞ忘れないでと
あなたは言った
忘れるもんか
君だけなのに
あああ、僕だけの君なのに
※この詩には稚拙な曲が付いている。
後に彼女に聞かせたら「西郷輝彦の唄に似てる」と言われた。
たしかに・・・。これまた模作だけのことはある。
あなた自身がどう思っているか知らないけれど
あなたは、僕の中で
力溢れて生きている
そう、僕の偉大なエネルギー源だ
あなたが反論するであろうその根源は納得済みだ
僕が勝手に作り上げた偶像だと言いたいのだろう
たしかにそうかも知れない
いや、そうに違いない
でも、ややこしい論法だが・・・
それも含めての<あなた>じゃないのかい?
決めつけて申し訳ないが
僕の作り上げた<あなた>としても
あなたはその<あなた>に気付いていないだけなんだよ
そして「逆もまた真なり」
僕自身が気づいていない<僕>が居るんだよ
僕の口癖さ
<己を客観視する>
そう、もう一人の自分を持つべきなんだよ
今の自分と、もう一人の自分が
合体、融合した時
とんでもない<自分>が生まれ出てくるんだ
わかるかな?
わかんね〜だろうな
いつもの・・・酔っ払いんの<戯言>さ
原稿を読むような演説(話)は、相手の心に響かない。
どんなに名文であっても伝わらない。
訥弁であっても、詰まり詰まりの話し方であっても
その人の心情が素直に吐露されたものであれば
必ず相手(聴衆)の心に響く。
原稿ではなくて、相手の目を見て、心に向って話そう。
僕はそうは思わないけど、あたかも<政治がすべて>と思っている人は多いよね。
でも、いつの時代の人だって、たまたまその時代に生まれてきたというだけで
自分が時代を選べるというわけにはいかないんだよ。
この世の辛苦、あるいはこの世の栄華は、生まれ持ったものであって、
言葉を換えれば、自らの魂の過去世の因果の表象であるわけで・・・。
さあ、そこでだ・・・この世で己如何にあるべきか!の到達点は、自分が見つける
しかないんだよ。
なにも期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思
いやりが<旱天の慈雨>として感じられるのだ。そこにおのずとわきあがってくる
感情こそ本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然
と消えてゆく。だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点
に立ちもどりつつ生きるしかない。
五木寛之「大河の一滴」