私は自我狂という言葉が好きです。それは決して独善ということではなしに、
自分自身に対するモノマニー、つまり思い込みです。特に芸術家はそれなしに芸術家
として絶対に立ってはいけません。つまりそれは個人個人の感性、情念の問題、
つまり個性の問題です。
石原慎太郎
わたしはいつも人の歩む筈の軌道からはみ出し外れてしまうのでした。
自分では制御出来ない内なる余剰なものが、軌道を飛び出させてしまうのでした。
瀬戸内寂聴
純一君、君はある種の裏社会に生きてしまったことは否めない。あえて「ある種」と言ったのは、僕の皮肉だ。表向きは全うだと言えるだろう。その種の人たちは山ほど居るからね。しかも堂々と大きな面をして。仮面とまでは言わないが、大衆、民衆を上から目線で見下して、巧みな言葉で操り信じこませるという、教科書通りの操り術だ。
でも君は、どこかの時点で気付いていたんじゃないのかい?しかし、その時にはもう家族も居ただろうし、役職上でもそれなりの位置にいた。ということは、君は本心に偽り仮面を被ってしまったわけだ。
自慢じゃないけど、逆に僕は、大海に投げ出された木の葉舟のような五年間を送っていたさ。意図的にというほど、カッコいいものではなかったけれど、金に変えられない貴重な宝物を得たと自負している。
「人間の価値は正義感」同じ価値観を植え付けられたはずだ。その監視眼を自らに向けることは出来なかったのかな?己を偽り、他人にはまことしやかに押し付ける。心的詐欺師の典型だと僕は確信する。
極論すれば、この世は騙し騙されの複雑な絡み合いだ。その混沌のなかで、如何に己を見失わないかの闘いだ。「爪上の土」という言葉がある。爪の上に土を乗せてみて、どれだけの土が残るのか?これは、究極の結果論だ。この世で生存中に判る話ではない。
この世の終わり、つまり我が身の臨終の時に、その答は出る。歴然と、まざまざと。
港の雨に濡れてる夜は
想い出すんだ白い顔
二人で歩いたあの坂道も
霧に霞んで哭いている・・・
もうあの潮の香りが思い出せない
もうあの満天の星空が思い出せない
この半都会の匂いに、色に、染まり切ってしまったか・・・
唐突に
遥か離島を旅する夢を見る
そしてその沖合の青い、青い大海原に
この身を投げ出す夢を見る
それこそが我が故郷に帰ると言うものだ
母の懐に抱かれると言うものだ
大海原の向こうからか、大空の彼方からか知らないけれど
僕を迎えに来るような予兆を察知した時
僕は何を叫ぶのだろう?
自分で言うのも可笑しいが・・・
それこそが「魂の叫び」ではなかろうか
そのギリギリの瞬間
何とも女々しい独り言かも知れない
そしてまた・・・
有りっ丈の強がりの言葉かもしれない
「僕」という言葉は使わず
「俺」はまさしくこの「俺」だと叫ぶかもしれない
足掻きではない
心深くに潜んでいる「自身」の叫びなのだ
あたかも・・・もう夢の芝居は終わったぜ
とでも言うように・・・
大小問わず、「選挙」と言うのは、利益代表者選びであって、人間性がどうだと
か、生き方がどうだとか言うのは、第二、第三の問題であるとしか思えないので
す。己の現実の社会生活に、どれだけの利益を齎してくれるのか!?それが己の投
票行動の第一原因であるとしか思えないのです。
この時点に於いて、人生観や価値観は置いてけぼりです。人間の持つ浅ましさでも
あり、くだらなさでもあります。人間としての正論は、この分野では通用しないと
言うことかも知れません。それゆえに、いわゆる文人の、小説家の、評論家の真価
が問われるところだとも思うのです。
極論すれば、この世の中・・・いわゆる「悪人」しか生まれ来ない時代です。
もっと言えば、何でもありの時代です。いわゆる「正論者」は、過去のガリレオ
の話ではありませんが、抹殺されるのです。そこで「それでも地球は回っている」
と言い切れるかどうかの問題なのです。
「金」を取るか、「心」を取るか、そしてその結末は、己があの世に逝った時
にしかわからないのです。偉そうな物言いをしていますが、これが僕なのです。
信条、信念は一歩も譲れないのです。
「ナタナエルよ、君に情熱を教えよう。
行為の善悪を判断せずに行為しなくてはならぬ。
平和な日を送るよりは、悲痛な日を送ることだ。私は死の眠り以外の休息を
願わない。私の一生の満たし得なかったあらゆる欲望、あらゆる力が私の死後
まで生き残って私を苦しめはしないかと思うと、ふと慄然とする。
私は心の中で待ち望んでいたものをことごとくこの世で表現した上で、
満足して!・・・あるいは絶望しきって死にたいものだ」
アンドレ・ジッド 『地の糧』
独善、誤解、孤立、徒労、悲痛・・・それらすべてを良し!とするのか?
そう思い込むべきなのか?青春時代とこの晩年とでは、その意味合いが
あまりにも重すぎる。
美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に強い勇ましいものに感動して
思わず感情がこみあげて、涙があふれるなぞというのは若さの証しです。ものに
感動しないのが年をとったということです。
瀬戸内寂聴