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背景の記憶(303)

 経験したことに変わりはないはずなのに、まさにその時の感覚と、半世紀を越えて思い出すのとでは、これほどまでの違いがあるのかと驚かされる。

 当時十八歳の僕からすれば、二十三歳の彼女は、とんでもなくオトナに見えた。年取ったという意味ではなくて、ホントに大人感がいっぱいだったのだ。いま、間近に見るその年齢に達した姪っ子たちを見れば、比べものにならないくらい幼稚に見えて、どうかしたら彼女たちの親でさえ、その存在感からしたら、当時の彼女の方がオトナに思えるくらいだ。

 そんな目で見れば、高校生や中学生である孫たちでさえ、同時期の僕と比べても、はるかに幼く見えるのは、どうしたものだろうか。
 おそらくこれは僕の推測ではあるが、歳を重ねた自分の意識や視点が、若かりし頃の自分と同化して、当時の自分をオトナ化して観ているのに違いない。おそらくは、当時の僕も、ホントは彼等彼女らと一緒で、幼いこと極まりない存在であったに違いない。

 やり直しのきかない人生。一度きりの人生。・・・が、しかし・・・思い出は新たなストーリーを展開して見せる。それが僕の願望なのか、はたまた彼女たちの悲願なのか。鮮やかなまでのストーリーを展開して見せる。
 現実界には存在しない彼女たちでさえ、この現世に蘇り、僕に囁きかける。

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背景の記憶(302)

 これは僕自身の特性と言おうか、あまり分け隔てのない性分だと思う。意識的でもなく持って生まれたものなのか・・・。親の薫陶を受けたわけでもなく、兄姉も歳が離れていたし、強いて言えば父母からの遺伝的感性なのだろう。

 小学生時代、不登校の同級生の家に迎えに行ったり、「あそこへは行ってはいけない」と噂のあった場所にも遊びに行って、ご飯をごちそうになって帰ったりもした。

 中学生時代では、秀才君だけど病弱な彼の家に誘われるがままに遊びに行った。殊の外、お母さんに歓待された記憶がある。そしてこれまたなぜか、転校生とも一早く仲良しになった。こちらからのはたらきかけでもなく、なぜか彼らの方から僕に話しかけてきた。夏休みに、故郷の隠岐の島に一緒に帰ったこともある。親の転勤絡みなのか、超都会的な言葉や振舞への憧れも含まれていたのかもしれない。学級委員とかの肩書?とは無関係で、僕の内面的な(世間知らず)特性がそうさせたのかもしれない。

 高校時代では、ちょっと不良っぽい女子が近づいてきた。たぶん彼女の親も教師だったと思うが、変に世間に拗ねたようなところがあって、シャツの胸元をちょっとだらしなく開けたような仕草が、悪っぽく見せてるようで妙に可愛かった。授業途中なのに教室を抜けだして、他のクラスの男子生徒と手を繋いで帰ったり・・。
 その彼女と還暦の同窓会で再会した時、思わぬことを言われた。「サリン事件の時、ゼッタイ!ワタナベ君があの中にいると思ってた」と。よくよく考えれば、学生時代から、宗教絡みの世界に踏み込んでいるという噂は、同級生たちには知れ渡っていたようだった。

 平凡の中の非凡。そんな自分を超客観視するもう一人の自分がいる。


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背景の記憶(301)

 久しくカラオケも行かない。もちろんコロナもあるし、昔のような仕事上での酒の付き合いも激減した。繁華街の料亭やスナックも大様変わりしていることだろう。

 若いころは、なぜか太鼓持ち的な役回りが多くて、司会やら酒のつぎ役やらで、まったく酔ってられない会合が多かった。そのおかげでとでも言おうか、世の中の裏表も直に勉強させてもらったし、僕レベルの個人では行けないような場所にも連れて行ってもらった。

 お付き合いの場(?)から解放されて、帰宅のタクシーを途中下車して、近場のスナックへ寄るのが常だった。そこでやっとふわ〜っと酔えるのだった。自分で言うのもなんだが、歌は上手かった。演歌もリズム歌謡もフォークも、洋楽も、何でも来いだった。

 そんな中で思い出す一曲がある。それは「浪花恋しぐれ」岡千秋と都はるみの台詞の入ったデュエット曲だ。僕が秋夫、彼女が春子・・・なんともウソのような配役だ。同じネズミ年・・・彼女が一回り上だった。♪芸のためなら女も泣かす・・・そらワイはアホや・・・なり切ったふたりの唄は拍手喝采を浴びた。まさしく懐かしい心温まる想い出だ。

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背景の記憶(300)

 父が学校の教師だったから、当然ながら父自身が僕の授業参観に来ることは全く無かった。そしてこれまた悲しいかな当然ながら義母(継母)も来ることは無かった。しかし、父と僕の担任教師とは学会でも知人であったため、それなりの情報は父には伝わっていたようだ。

 あれは小学四年生の頃だっただろうか?帰宅した父から「あきお、おまえ教科書を学校に置いたままなのか?」と聞かれた。(あちゃ、バレたか・・・)さらに「宿題はどうしてるんや?」これには(放課後の時間にやってしまってるよ)と答えた。事実だったし。それから先は父の追及は無かった。更に聞かれてもたぶん無言を貫いただろう。

 理由は明白だった(自分なりに)。僕にはランドセルが無かったし、当時では気の利いた手提げ袋も無かった。幼心ながら、風呂敷に教材を包んで行くのが恥ずかしかったのだ。似たような子は他にもいただろうけれども、そこまで観察する思いもなかった。着ている服と同様、人の目が気になる性格的なものも働いたようだ。

 もう一つ付け加えれば、級長という立場も、一種の自尊心を形成していた。いつも書くように自身のピエロ性がそうさせたのだと分析する。人前では一際明るく振舞い、(笑顔良しのあきちゃん)を演じていたのだ。そんな内面を、父はどこまで理解していたのだろう?担任の先生からの伝達を鵜呑みに信じていたのだろうか?

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背景の記憶(299)

過去のブログ


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背景の記憶(298)

離島〜隠岐の島の港湾建設に従事していた僕に、一枚の暑中見舞いの葉書が届い

た。印刷された定例文の横に、県名と見覚えのない姓だけが、流れるような達筆で

書かれていた。もちろんその字体だけで誰からのものかは理解したのだが、更にダ

メ押しのように「結婚しました」の一行が添えられていた。

その事ごとの一つ一つが、彼女らしい心遣いであるのは。痛いほどわかったのだ

が、それがまた余計に僕の心を締め付けた。とっくに諦めて覚悟していたはずの

事柄であったのに、図らずも涙が溢れて、頬を伝った。

その傷心を癒すための、そして全てを忘れるための一大プランであったはずなの

に、誰が彼女に住所を知らせたのだろう?思い当たるのは数人しかいないのだが

それを突き止めたところで、その人に罪はない。

僕にとっては、酷な結末と言えるが、アンコールの無い最終幕が降ろされた瞬間

だった。


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背景の記憶(297)

  知能と学歴

 僕の最終学歴は一応高卒とはなっているが、実際は高校中退が正解だと、今でも思っている。教師の父親の勤務先と同じ中学校に在籍し、窮屈極まりない三年間を過ごした。先生方や生徒たち双方の興味と注目の的で、いい加減な成績は残せなかった。10クラス500人の一学年。委員長、副委員長 × 10 で、二十番以内が認定位という暗黙のプレッシャーの中で過ごした三年間だった。特に進学を前にした三年生の時は、テストの成績上位者が廊下に張り出されたので、さらに圧力を受けざるを得なかった。

 高校受験は僕が希望した工業高校・建築科の受験はなぜか拒否(?)され、普通高校の受験となった。しかも県下で1,2を争う進学校。受験後間もなく、教師の特権と言おうか、公式発表の前に父から結果成績を告げられた。九科目800点満点で、750点台だったと言われた。然したる感慨もなく、親の面子は保たれたか・・ぐらいの感想だった。

 高校生活は、一年生の時が唯一楽しかった。父から離れられた解放感と、バスケットに打ち込める喜びで一杯だった。しかし、どこからどう漏れるのかクラスメートからは、「渡部君、ここ教えて・・・」という立場が待っていた。これにはさすがの僕も参った。僕には本当の意味での真面な学力などなかったのである。中学校の勉強は基本中の基本。それがひとよりちょっと勝っていたという程度に過ぎない。

 高校二年になって、さらに追い打ちがかけられた。校内でも超有名なスパルタ教師が担任となり、みんなは大学受験一直線の体勢に入って行った。僕はと言えば、健康診断で不整脈が見つかり、バスケは退部を余儀なくされた。そこへもってきて家庭内でのごたごたがあって、僕は父母の信仰していた宗教の施設へ入ることとなった。経緯は兎も角、勉学に打ち込める生活ではなくなってしまったのである。

 三年生への進級を前にしたころ、熱血先生に職員室へ呼ばれた。「お前はどういうわけか入学試験の成績が良くて、今、辛うじてトップ50にぶら下がっている。このままでは微妙な位置だ。どうする?国公立志望で行くのか!?」僕は自棄になったわけでは無く「就職します」と言ったら「この学校には就職コースは無い!」と周りの先生方がびっくりするくらいの大声で怒鳴られた。「では、私立文科系でお願いします。」「それでは2ランクも下のコースだぞ。耐えられるのか!?」
「はい、それで結構です」

 三年生になると、実際周りからは好奇の目で見られた。「なんでアイツが・・・というわけである。しかし、他方で教え込まれた宗教的思索がそれを凌駕し、なんとも感じないようになっていった。今思えば強烈なマインドコントロール下にあったわけだが、心の比重が逆転すれば、世の中のすべての事象が逆転して考えられたわけである。

 元同レベルの賢者たちは東大合格者が二桁に迫り、ほとんどが国公立へ受かった。僕は父親の強いた大学の試験は白紙答案で意思表示をし、宗教施設で、布教師の卵として出発を期したのだった。

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背景の記憶(296)

 19歳の夏

 原爆ドームを川向うに見る四畳半のアパートで暮らした。台所もトイレも共同。

もちろん風呂などない。僕の中には、極貧とかひもじいとか云うような意識は全く

無かった。反対に修行とか鍛錬とか云うような高尚な意識も無かった。ごく当たり

前のこととして受け止めていた。

 まさに原爆投下の八月、水ばかりを飲んで暮らした。木陰をクーラーのように感

じ、三十円のアイスキャンディーが宝石のように思えた。陽炎の揺らめく電車道を

夢遊病者のように歩き。キラキラと輝く太田川の川面に引き込まれるような錯覚を

覚えた。電車賃もバス代も無い、ひたすら歩くのみ。流れた汗が拭く間もなく塩と

なった。

 そんなある日、父から小包が届いた。開けると白米と舐め味噌だった。まさに

天の恵み!・・・生き返った!あのままでは野垂れ死にしていただろう19歳の夏。
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背景の記憶(295)

湖の干拓地 車の通らない跨線橋

独りぼっちの街灯 夢の影

わずかな時間の 待ち合わせ

言葉はいらない

ただ寄り添い 手を握る

あの遠い日の涙は

明日への希望ではなかったのか

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背景の記憶(294)

高校二年の時、進学校の得体の知れない圧力に屈して、僕は登校拒否になった。自宅は出ても学校の近くのばあちゃんの家に行くようになった。ばあちゃんは問い詰めるようなことは一言も言わず、「カルタ(花札)しょうや」と言って遊んでくれた。僕にも分かるようなイカサマだったが、僕はそれもまた嬉しかった。あの数ヶ月が無かったら、僕は出口の無い暗闇に入り込んで行ったかも知れない。

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