私たちの世代は「アンネの日記」を読み、ナチスによるユダヤ人迫害の歴史に心を痛めた。隠れ家の中で、恐怖に耐えながら、それでも人間であろうとした少女の声に触れ、理不尽な暴力に抗わなければならないと感じた。
しかし、あれから半世紀近くが過ぎた今、ガザで起きている現実を前に、深い矛盾と痛みを覚えずにはいられない。かつて迫害された民の記憶を背負う国家が、圧倒的に弱い立場にあるパレスチナの人々を狭い地域に閉じ込め、テロリスト掃討の名のもとに、女性や子どもを含む無数の人々を傷つけている。
もちろん、これを「ユダヤ人全体」の問題として語ってはならない。ユダヤ人の中にも、イスラエル政府の政策に反対し、ガザの惨状に声を上げている人々はいる。問われるべきは、イスラエル国家の軍事政策てあり、それを支える政治的、宗教的ナショナリズムであり、そして暴力を正義の名で覆い隠す人間の心である。
「息のあるものを一生生かしておいてはならない」という申命記の言葉(「息のあるものを決して生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければならない」「申命記」第二十章十六、十七節)は、古代の聖典の中に刻まれた恐るべき暴力の記憶である。問題は、そのような言葉が、現代の国家権力や軍事力と結び付いた時、人は自分の残酷さを残酷さとして感じなくなる。
人間をここまで残酷にするものは、単なる憎悪だけではない。自分たちは正しい、自分たちは選ばれている、自分たちは被害者であり続けている、だから相手に何をしても許される、という心の構造である。宗教がその心に絶対性を与える時、信仰は慈悲ではなく、殺戮の免罪符になってしまう。
「アンネの日記」が今なお大切なのは、ユダヤ人の苦しみだけを記憶するためではない。あらゆる時代、あらゆる場所で、国家や民族や宗教の名によって踏みにじられる一人ひとりの命を見失わないためである。ガザにもまた、名前を持ち、夢を持ち、恐怖の中で生きている無数のアンネがいる。その声を聞けなくなった時、私たちはすでに、かつて批判した暴力の側に立っているのではないか。
【長松清潤師】
感覚を新鮮にするには、つねに異質的なものを媒介として
自己を磨く必要がある。でないと感覚はいつしか鈍磨して、
マンネリ化する恐れがある。
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真理は現実の只中にあって、書物の中にはない。
書物は真理への索引(インデックス)ないしは栞に過ぎない。
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この世における辛酸不如意、苦労等を、すべて前世における
負い目の返済だと思えたら、やがては消えてゆく。だが、
これが難しい。
【森 信三】
誰もが、精神や思想の法則を求めていたし、それらを求めること自体が知的な行為と
見なされていた。曖昧な情に流されることやヒューマニズムに従うことは、軽蔑の
対象になった。建設よりも破壊、具象よりも抽象…だった。
そのくせ、多くの人間が、幼いロマンティシズムと通俗的な世界観を捨てられずにいた。
そして、その落差、自己矛盾に対して、生真面目に苦しんだ。
【小池真理子】「望みは何と訊かれたら」
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この小説の題材や状況と全く同時期に僕は生きていた。しかも、事の中身の違いこそ
あれ、類似した事柄(事件)の当事者であったわけだ。そして又、事の進行も類似して
いる。警察の扱う事件性とは違った、心的事件と言おうか、当時の時代背景も相まって
一歩間違えば新聞沙汰にもなりかねない立場に、僕は置かれていたのだ。