正と邪、善と悪、美と醜など、ときに人は物事をばっさりと二分して捉え
ようとする。自分は、正しい側でいたいと願う。しかし、実際は、そんな単純な
ものではない。光の当て方によってはどちら側とも言えるし、ひとつの言葉では
表せない。矛盾した要素をそなえているもの。多面的で多義的である。人生とは、
すべからく「メビウスの帯」のうえを歩いているようなものかもしれない。
そして、いつも理解してくれない反対側へ「片想い」しているのである。
吉野 仁 (「片想い」解説)
人間の生命が、たがいに呼応し共感し得るということは
何たる至幸というべきであろうか。
世にこれに勝るいかなるものがあるであろうか。
森 信三
「いいんだよ、わかってる。
何もかもオレの自己満足だし一人相撲なんだ。
永遠の片想いってやつよ。
だけどそれでもオレにとっては大事なことなんだ。」
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永遠の片想い、か・・・。
その気持ちは何となく理解できた。
無意味だとわかっていながら、こだわらずにはいられない何か・・・
誰だってそういうものを持っている。
「片想い」 東野圭吾
人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅過ぎない時に。
森 信三
昔、「ねじれの位置」なるものを学んだ時、数学的なこと以上に
心理的な問題として受け止めたのでした。
意見の違いとか、相性の問題とかいう次元の問題ではなくて
もっと神秘的な意味合いで受け止めたのでした。
〇書いてさえ虚しいのに、書かなかったら、もっと虚しい。
つまり虚しさも感じないほどむなしい晩年になる。
自分の書いたものを、いつまでも握って出さずにいると、
精神的な便秘になる。それ故次への展開がきかない。
ところが出すとかえって執着がなくなる。だから思い切って
出すんですね。たとえ人からどう言われようと、かまわんじゃ
ありませんか。結局は自己の執着を断つために出すんですから。
森 信三
〇世の中は、目に映らない場所で、誰かが誰かのためにひたむきに、何かを
しているものだ。目を少し大きく見開けば、そんなことであふれている。
今は見えずとも、のちにそれを知り感謝することもあるのだろう。
己のしあわせだけのために生きるのは卑しいと私は思う。
〇私が言っている「追いかけるな」というのは、いつまでもつまらぬものに
こだわるなという意味合いの方が強い。
〇理不尽がまかりとおるのが世の中だ。
〇怒りはその人を成長させたり、新しいものに挑んだりする精神を養う。
〇人を悪く言うことは、空にむかって唾を吐いているのと同じです。
※「流言は智者に止まる」(洵子)
伊集院 静
吹いてくる風が頬や胸板にあたるなら、
むかい風に立っていることを学びなさい。
目の前に登り坂と下り坂があったなら、
一度は(いや二度でも三度でも)
自分から選んで登り坂を歩きなさい。
登り坂を歩きながら、
少しだけ息苦しさもある中で、
もう一歩、いやもう一歩登ってみましょう。
きっと何かが、そこにあるかもしれないから・・・。
私たちのいきていく道は、
やってみなければ見えないもの、
出逢うことがないものがたくさんあります。
伊集院 静