「むっつり助平」という言葉がある。
僕はその言葉をもろにぶつけられたことがある。
彼は当時の一方的片思いの彼女が、僕に気があると邪推してのことだった。
そのような事実はあろうはずもなく、僕はただ耐えるしかなかった。
生来、その方面では鈍感極まりない僕は??であった。だって当の本人とは
言葉も交わしたこともなかったのだから……。
しかし、事実はそのまた逆だった。
対象の彼女との距離が急接近したのだった。
いつもの習性で、僕は遠くから見ていた。人も物事も……。
ところが、彼女は違っていたのだ。
僕の形無き習性を、もろに受け止めてしまったのだった。
成就と言えば成就、悲劇と言えば悲劇。
またやらかしたか!
これは卒業したはずだった。
自分の心の中だけのドラマのはずだった。
不思議な現象だ……。
意は現に成る。
この時ほどテレパシーを如実に意識したことはない。
僕はこの世の【雑事】とまでは言いきる自信は無いが、一種の厭世感の中に
あることは確かなようだ。 政治にしろ何にしろ、滑稽極まりない茶番劇としか
映らない。責める側も責められる側も……。
それは、日本国で言えば、わすか数百年前とも何ら変わることはなく、
地球規模て言っても、同じことの繰り返し。
大局的に言えば、自ら発明したモノに牛耳られ、抹殺されようとしている。
この悲喜劇。
そのスケールは、自分の数メートルの範囲でさえ同類としか言いようがない。
人類は人類が首を締める。
人間は自らが首を締める。
それを歴史の大展開の中で、どれだけの人が実感しているのだろうか?
凄まじいはかりの世の中の変遷、展開の中で、動じないとする自分が、
果たして正解なのか?正論なのか?
「一切の善 一善に帰す」が、禅問答のように心の中を駆け巡る。