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井の中の蛙

「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、視野が狭く世間知らずというネガティブな解釈から、「されど空の青さ(深さ)を知る」が付け足されたことで、前向きな解釈が生まれてきたという。つまりは「真髄」を知ると言うわけだ。
 一つの道を極めようとする姿勢として考え出されたものらしい。僕的に逆を言えば、いくら世間全般を知っていたって、ただの物識りと言うだけで、自身に確固たる信念めいたものが無ければ、人が敬い崇めるような存在とは言い難い。そういう類いのなんと多いことか。つまりは、表現を変えれば、
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というわけだ。

 頂上(目的地)に何が有るかを示されていても、更にその道のプロと言える先導者が居ても信じられず、隣の山や遠くの山々が輝いて見えるのは、浅はかとしか言いようがない。その事までも自覚した上で、一旦下山し他の山に登ってみるのなら、それはそれで意義ある事なのかもしれない。しかし、最初の山が本物であればあるほど、無意味な遠回りと言われても仕方がない。

 更に言えば、もう一度もとの山の入り口まで引き返して、次の一歩を踏み出すほどの決定心と忍耐力があるかどうかということだ。おそらく大方は引き返す事さえ億劫になり、諦め、そこらの道端に座り込んでしまうにちがいない。

 ここで大きな疑問符が浮かび上がる。それは..そもそも最初の山が本当に「宝の山」であったのかどうか、登ってみなきゃ分からないじゃないか、という問題。この判断基準は難しい。見方、判断を誤れば、とんでもない迷路に引き込まれて行くかも知れないのだから。ここでこそ、己の集大成とも言える決断力が試される。さらに加えて言えば、「若さ」である。若ければやり直しがきく。再チャレンジができる。
ここで先人達の言葉が生きてくる「若者には旅をさせろ」か「青年は荒野を目指せ」

--------------------------------------------------------------

 六人もの兄姉がおりながら、三人が一誕生日を待たずに他界し、母も僕の三歳の誕生日の明くる日に他界した。程なく次の母が現れ、兄姉とは離別し、僕は一人っ子になった。母性愛欠乏症と自虐的に言っているが、なまじっか作り事ではなくて、自分で言うのもおかしいくらい奇妙奇天烈な少年時代、青春時代が待っていた。

 十歳離れた兄は頭脳優秀で、当時、法科として東の中央か西の立命かと言われた
中央大学に合格した。しかしその年、兄は睡眠薬による自殺未遂事件を起こし、横浜の叔父に発見されて自宅に戻って来てしまった。夜と昼が逆転したような生活で、薄暗い部屋に閉じ籠ったままの印象が残っている。僕は小学三年生だった。

 程なくして、今度は父が重度の腎臓病に懸かり、入院することになった。父は国語の教師だった。当時、妙薬と言われた副腎皮質ホルモンの投薬を受けていたが、その効果は薄く入院生活は長引いた。そんな時、文藝春秋に載った記事で父は愕然とした。アメリカのレーチェル.カーソン女史の書いた「薬毒論」がその原因だった。
(このままでは殺される)と思った父は、その日から服薬を止め、ベッド下に置いたビニール袋の中に溜め置いた。その代わりと言っては何だが、故郷(隠岐の島)の祖父母から送られて来た薬草を煎じた物を飲むようになった。僕がその運び役だった。回診の時、医者は「薬が効いて来ましたね」と言ったとか。ぞの数ヵ月後、父は退院した。

 兄は、精神分裂症(総合失調症)との診断で、米子市の医大病院へ入院した。当時としては公的に当たり前とされた(電気ショック療法)が行われたらしい。しかしその効果は薄く、兄は又しても自殺未遂事件を起こしたのだった。心配した祖父母の提案で、兄は生まれ故郷の隠岐の島へ帰り、祖父や叔父が営んでいた回送店の手伝いを始めた。その当時は、まだ港湾施設が充実しておらず、大型船は接岸できず、湾の中で錨を下ろし、島と船との中を取り持つ業者が必要とされていた。夜中に到着することもあるし、湾内とはいえ、時化の時には命懸けの仕事だったようだ。事実荷物諸とも海に転落したりの事故も少なくなかったらしい。何度か乗せてもらった経験があるが、小舟と言えどもとんでもなく大きな櫓漕ぎ船で、子供の力で操れるような代物ではなかった。そんな肉体労働が効を奏して、ついに兄は難病を克服したのだった。


 小学五年生の時、弟が生まれた。ほんとはその三年前にも義母は妊娠していたのだが、そのまた義母の猛烈な反対にあって、危険な時期であったらしいのに、堕胎したと後に聞かされた。当時はまだ、産めよ増やせよの時代であり、父にも義母にも避妊意識は皆無だったと思われる。
 それからが辛かった。自らの腹を痛めて産んだ子を溺愛し、苛められる事こそ無かったが、ほぼ放ったらかし状態であり、露骨とも思える食べ物の差別も始まった。僕はいつ頃から身に付けたのか、自己防衛的振る舞いが生まれて、周りの誰からも(笑顔よしの秋ちゃん)と言われるようになった。顔で笑って心で泣いて、まさにピエロ状態に陥ったのだった。

 教員という職業柄、父には転勤が付ものだった。ほぼ毎年のように住む場所が変わった。僕は得意の?ピエロ性をいかんなく発揮して、学校では先生方にも生徒にもそれなりに人気者だった。ずっとクラス委員にも任命された。そして当時始まった文部省の視聴覚教育の一環で、放送施設や放送部なるものが作られ、僕はアナウンサーを任命された。仲間が給食を食べている時に、「皆さん、こんにちは...」とやっていたわけだ。NHKの松江放送局でも講習を受け、アナウンサーとしての基礎中の基礎をたたき込まれた。あのときの経験を初心として貫けば、ホントにアナウンサーんを職業としていたかも知れない。
 同じ六年生の時、弓ヶ浜の自衛隊美保基地から来たヘリコプターに全校代表として乗せてもらい、松江市内の上空を飛んだ。「街が箱庭のようで、、、」と感想を述べた記憶がある。
 家庭内での重苦しさとは裏腹に、学校生活はいたって楽しかった記憶しかない。しかし、今では死語に近い言葉だが、お風呂はいつも母屋の(もらい湯)だった。母屋の人達が終わってからだから、日が代わる時間になるのも度々だった。母屋の人達はもう寝床に入っているし、まるで泥棒のような入り方だった。薪をくべて沸かすのは僕の役目だったが、入れて貰うだけでも喜ぶべき事だったのかも知れない。

 中学に入って、僕の環境は一変した。重苦しい空気に包まれてしまった。父が同じ中学校へ転任してきたのだ。しかも同じ一年生担当。僕らは団塊世代だから、組数は十クラスと多かったが、それでも噂はすぐに広まり、生徒間はもちろん、先生方にもその目で見られ、がんじがらめの硬直したような生活が否応なしに突き付けられたのだった。

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井の中の蛙

「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、視野が狭く世間知らずというネガティブな解釈から、「されど空の青さ(深さ)を知る」が付け足されたことで、前向きな解釈が生まれてきたという。つまりは「真髄」を知ると言うわけだ。
 一つの道を極めようとする姿勢として考え出されたものらしい。僕的に逆を言えば、いくら世間全般を知っていたって、ただの物識りと言うだけで、自身に確固たる信念めいたものが無ければ、人が敬い崇めるような存在とは言い難い。そういう類いのなんと多いことか。つまりは、表現を変えれば、
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というわけだ。

 頂上(目的地)に何が有るかを示されていても、更にその道のプロと言える先導者が居ても信じられず、隣の山や遠くの山々が輝いて見えるのは、浅はかとしか言いようがない。その事までも自覚した上で、一旦下山し他の山に登ってみるのなら、それはそれで意義ある事なのかもしれない。しかし、最初の山が本物であればあるほど、無意味な遠回りと言われても仕方がない。

 更に言えば、もう一度もとの山の入り口まで引き返して、次の一歩を踏み出すほどの決定心と忍耐力があるかどうかということだ。おそらく大方は引き返す事さえ億劫になり、諦め、そこらの道端に座り込んでしまうにちがいない。

 ここで大きな疑問符が浮かび上がる。それは..そもそも最初の山が本当に「宝の山」であったのかどうか、登ってみなきゃ分からないじゃないか、という問題。この判断基準は難しい。見方、判断を誤れば、とんでもない迷路に引き込まれて行くかも知れないのだから。ここでこそ、己の集大成とも言える決断力が試される。さらに加えて言えば、「若さ」である。若ければやり直しがきく。再チャレンジができる。
ここで先人達の言葉が生きてくる「若者には旅をさせろ」か「青年は荒野を目指せ」

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 六人もの兄姉がおりながら、三人が一誕生日を待たずに他界し、母も僕の三歳の誕生日の明くる日に他界した。程なく次の母が現れ、兄姉とは離別し、僕は一人っ子になった。母性愛欠乏症と自虐的に言っているが、なまじっか作り事ではなくて、自分で言うのもおかしいくらい奇妙奇天烈な少年時代、青春時代が待っていた。

 十歳離れた兄は頭脳優秀で、当時、法科として東の中央か西の立命かと言われた
中央大学に合格した。しかしその年、兄は睡眠薬による自殺未遂事件を起こし、横浜の叔父に発見されて自宅に戻って来てしまった。夜と昼が逆転したような生活で、薄暗い部屋に閉じ籠ったままの印象が残っている。僕は小学三年生だった。

 程なくして、今度は父が重度の腎臓病に懸かり、入院することになった。父は国語の教師だった。当時、妙薬と言われた副腎皮質ホルモンの投薬を受けていたが、その効果は薄く入院生活は長引いた。そんな時、文藝春秋に載った記事で父は愕然とした。アメリカのレーチェル.カーソン女史の書いた「薬毒論」がその原因だった。
(このままでは殺される)と思った父は、その日から服薬を止め、ベッド下に置いたビニール袋の中に溜め置いた。その代わりと言っては何だが、故郷(隠岐の島)の祖父母から送られて来た薬草を煎じた物を飲むようになった。僕がその運び役だった。回診の時、医者は「薬が効いて来ましたね」と言ったとか。ぞの数ヵ月後、父は退院した。

 兄は、精神分裂症(総合失調症)との診断で、米子市の医大病院へ入院した。当時としては公的に当たり前とされた(電気ショック療法)が行われたらしい。しかしその効果は薄く、兄は又しても自殺未遂事件を起こしたのだった。心配した祖父母の提案で、兄は生まれ故郷の隠岐の島へ帰り、祖父や叔父が営んでいた回送店の手伝いを始めた。その当時は、まだ港湾施設が充実しておらず、大型船は接岸できず、湾の中で錨を下ろし、島と船との中を取り持つ業者が必要とされていた。夜中に到着することもあるし、湾内とはいえ、時化の時には命懸けの仕事だったようだ。事実荷物諸とも海に転落したりの事故も少なくなかったらしい。何度か乗せてもらった経験があるが、小舟と言えどもとんでもなく大きな櫓漕ぎ船で、子供の力で操れるような代物ではなかった。そんな肉体労働が効を奏して、ついに兄は難病を克服したのだった。


 小学五年生の時、弟が生まれた。ほんとはその三年前にも義母は妊娠していたのだが、そのまた義母の猛烈な反対にあって、危険な時期であったらしいのに、堕胎したと後に聞かされた。当時はまだ、産めよ増やせよの時代であり、父にも義母にも避妊意識は皆無だったと思われる。
 それからが辛かった。自らの腹を痛めて産んだ子を溺愛し、苛められる事こそ無かったが、ほぼ放ったらかし状態であり、露骨とも思える食べ物の差別も始まった。僕はいつ頃から身に付けたのか、自己防衛的振る舞いが生まれて、周りの誰からも(笑顔よしの秋ちゃん)と言われるようになった。顔で笑って心で泣いて、まさにピエロ状態に陥ったのだった。

 教員という職業柄、父には転勤が付ものだった。ほぼ毎年のように住む場所が変わった。僕は得意の?ピエロ性をいかんなく発揮して、学校では先生方にも生徒にもそれなりに人気者だった。ずっとクラス委員にも任命された。そして当時始まった文部省の視聴覚教育の一環で、放送施設や放送部なるものが作られ、僕はアナウンサーを任命された。仲間が給食を食べている時に、「皆さん、こんにちは...」とやっていたわけだ。NHKの松江放送局でも講習を受け、アナウンサーとしての基礎中の基礎をたたき込まれた。あのときの経験を初心として貫けば、ホントにアナウンサーんを職業としていたかも知れない。
 同じ六年生の時、弓ヶ浜の自衛隊美保基地から来たヘリコプターに全校代表として乗せてもらい、松江市内の上空を飛んだ。「街が箱庭のようで、、、」と感想を述べた記憶がある。
 家庭内での重苦しさとは裏腹に、学校生活はいたって楽しかった記憶しかない。しかし、今では死語に近い言葉だが、お風呂はいつも母屋の(もらい湯)だった。母屋の人達が終わってからだから、日が代わる時間になるのも度々だった。母屋の人達はもう寝床に入っているし、まるで泥棒のような入り方だった。薪をくべて沸かすのは僕の役目だったが、入れて貰うだけでも喜ぶべき事だったのかも知れない。

 中学に入って、僕の環境は一変した。重苦しい空気に包まれてしまった。父が同じ中学校へ転任してきたのだ。しかも同じ一年生担当。僕らは段階世代だから、組数は十クラスと多かったが、それでも噂はすぐに広まり、生徒間はもちろん、先生方にもその目で見られ、がんじがらめの硬直したような生活が否応なしに突き付けられたのだった。

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「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、視野が狭く世間知らずというネガティブな解釈から、「されど空の青さ(深さ)を知る」が付け足されたことで、前向きな解釈が生まれてきたという。つまりは「真髄」を知ると言うわけだ。
 一つの道を極めようとする姿勢として考え出されたものらしい。僕的に逆を言えば、いくら世間全般を知っていたって、ただの物識りと言うだけで、自身に確固たる信念めいたものが無ければ、人が敬い崇めるような存在とは言い難い。そういう類いのなんと多いことか。つまりは、表現を変えれば、
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というわけだ。

 頂上(目的地)に何が有るかを示されていても、更にその道のプロと言える先導者が居ても信じられず、隣の山や遠くの山々が輝いて見えるのは、浅はかとしか言いようがない。その事までも自覚した上で、一旦下山し他の山に登ってみるのなら、それはそれで意義ある事なのかもしれない。しかし、最初の山が本物であればあるほど、無意味な遠回りと言われても仕方がない。

 更に言えば、もう一度もとの山の入り口まで引き返して、次の一歩を踏み出すほどの決定心と忍耐力があるかどうかということだ。おそらく大方は引き返す事さえ億劫になり、諦め、そこらの道端に座り込んでしまうにちがいない。

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ここで先人達の言葉が生きてくる「若者には旅をさせろ」か「青年は荒野を目指せ」

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 六人もの兄姉がおりながら、三人が一誕生日を待たずに他界し、母も僕の三歳の誕生日の明くる日に他界した。程なく次の母が現れ、兄姉とは離別し、僕は一人っ子になった。母性愛欠乏症と自虐的に言っているが、なまじっか作り事ではなくて、自分で言うのもおかしいくらい奇妙奇天烈な少年時代、青春時代が待っていた。

 十歳離れた兄は頭脳優秀で、当時、法科として東の中央か西の立命かと言われた
中央大学に合格した。しかしその年、兄は睡眠薬による自殺未遂事件を起こし、横浜の叔父に発見されて自宅に戻って来てしまった。夜と昼が逆転したような生活で、薄暗い部屋に閉じ籠ったままの印象が残っている。僕は小学三年生だった。

 程なくして、今度は父が重度の腎臓病に懸かり、入院することになった。父は国語の教師だった。当時、妙薬と言われた副腎皮質ホルモンの投薬を受けていたが、その効果は薄く入院生活は長引いた。そんな時、文藝春秋に載った記事で父は愕然とした。アメリカのレーチェル.カーソン女史の書いた「薬毒論」がその原因だった。
(このままでは殺される)と思った父は、その日から服薬を止め、ベッド下に置いたビニール袋の中に溜め置いた。その代わりと言っては何だが、故郷(隠岐の島)の祖父母から送られて来た薬草を煎じた物を飲むようになった。僕がその運び役だった。回診の時、医者は「薬が効いて来ましたね」と言ったとか。ぞの数ヵ月後、父は退院した。

 兄は、精神分裂症(総合失調症)との診断で、米子市の医大病院へ入院した。当時としては公的に当たり前とされた(電気ショック療法)が行われたらしい。しかしその効果は薄く、兄は又しても自殺未遂事件を起こしたのだった。心配した祖父母の提案で、兄は生まれ故郷の隠岐の島へ帰り、祖父や叔父が営んでいた回送店の手伝いを始めた。その当時は、まだ港湾施設が充実しておらず、大型船は接岸できず、湾の中で錨を下ろし、島と船との中を取り持つ業者が必要とされていた。夜中に到着することもあるし、湾内とはいえ、時化の時には命懸けの仕事だったようだ。事実荷物諸とも海に転落したりの事故も少なくなかったらしい。何度か乗せてもらった経験があるが、小舟と言えどもとんでもなく大きな櫓漕ぎ船で、子供の力で操れるような代物ではなかった。そんな肉体労働が効を奏して、ついに兄は難病を克服したのだった。


 小学五年生の時、弟が生まれた。ほんとはその三年前にも義母は妊娠していたのだが、そのまた義母の猛烈な反対にあって、危険な時期であったらしいのに、堕胎したと後に聞かされた。当時はまだ、産めよ増やせよの時代であり、父にも義母にも避妊意識は皆無だったと思われる。
 それからが辛かった。自らの腹を痛めて産んだ子を溺愛し、苛められる事こそ無かったが、ほぼ放ったらかし状態であり、露骨とも思える食べ物の差別も始まった。僕はいつ頃から身に付けたのか、自己防衛的振る舞いが生まれて、周りの誰からも(笑顔よしの秋ちゃん)と言われるようになった。顔で笑って心で泣いて、まさにピエロ状態に陥ったのだった。

 教員という職業柄、父には転勤が付ものだった。ほぼ毎年のように住む場所が変わった。僕は得意の?ピエロ性をいかんなく発揮して、学校では先生方にも生徒にもそれなりに人気者だった。ずっとクラス委員にも任命された。そして当時始まった文部省の視聴覚教育の一環で、放送施設や放送部なるものが作られ、僕はアナウンサーを任命された。仲間が給食を食べている時に、「皆さん、こんにちは...」とやっていたわけだ。NHKの松江放送局でも講習を受け、アナウンサーとしての基礎中の基礎をたたき込まれた。あのときの経験を初心として貫けば、ホントにアナウンサーんを職業としていたかも知れない。
 同じ六年生の時、弓ヶ浜の自衛隊美保基地から来たヘリコプターに全校代表として乗せてもらい、松江市内の上空を飛んだ。「街が箱庭のようで、、、」と感想を述べた記憶がある。
 家庭内での重苦しさとは裏腹に、学校生活はいたって楽しかった記憶しかない。しかし、今では死語に近い言葉だが、お風呂はいつも母屋の(もらい湯)だった。母屋の人達が終わってからだから、日が代わる時間になるのも度々だった。母屋の人達はもう寝床に入っているし、まるで泥棒のような入り方だった。薪をくべて沸かすのは僕の役目だったが、入れて貰うだけでも喜ぶべき事だったのかも知れない。

 中学に入って、僕の環境は一変した。重苦しい空気に包まれてしまった。父が同じ中学校へ転任してきたのだ。しかも同じ一年生担当。僕らは段階世代だから、組数は十クラスと多かったが、それでも噂はすぐに広まり、生徒間はもちろん、先生方にもその目で見られ、がんじがらめの硬直したような生活が否応なしに突き付けられたのだった。

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井の中の蛙

「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、視野が狭く世間知らずというネガティブな解釈から、「されど空の青さ(深さ)を知る」が付け足されたことで、前向きな解釈が生まれてきたという。つまりは「真髄」を知ると言うわけだ。
 一つの道を極めようとする姿勢として考え出されたものらしい。僕的に逆を言えば、いくら世間全般を知っていたって、ただの物識りと言うだけで、自身に確固たる信念めいたものが無ければ、人が敬い崇めるような存在とは言い難い。そういう類いのなんと多いことか。つまりは、表現を変えれば、
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というわけだ。

 頂上(目的地)に何が有るかを示されていても、更にその道のプロと言える先導者が居ても信じられず、隣の山や遠くの山々が輝いて見えるのは、浅はかとしか言いようがない。その事までも自覚した上で、一旦下山し他の山に登ってみるのなら、それはそれで意義ある事なのかもしれない。しかし、最初の山が本物であればあるほど、無意味な遠回りと言われても仕方がない。

 更に言えば、もう一度もとの山の入り口まで引き返して、次の一歩を踏み出すほどの決定心と忍耐力があるかどうかということだ。おそらく大方は引き返す事さえ億劫になり、諦め、そこらの道端に座り込んでしまうにちがいない。

 ここで大きな疑問符が浮かび上がる。それは..そもそも最初の山が本当に「宝の山」であったのかどうか、登ってみなきゃ分からないじゃないか、という問題。この判断基準は難しい。見方、判断を誤れば、とんでもない迷路に引き込まれて行くかも知れないのだから。ここでこそ、己の集大成とも言える決断力が試される。さらに加えて言えば、「若さ」である。若ければやり直しがきく。再チャレンジができる。
ここで先人達の言葉が生きてくる「若者には旅をさせろ」か「青年は荒野を目指せ」

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 六人もの兄姉がおりながら、三人が一誕生日を待たずに他界し、母も僕の三歳の誕生日の明くる日に他界した。程なく次の母が現れ、兄姉とは離別し、僕は一人っ子になった。母性愛欠乏症と自虐的に言っているが、なまじっか作り事ではなくて、自分で言うのもおかしいくらい奇妙奇天烈な少年時代、青春時代が待っていた。

 十歳離れた兄は頭脳優秀で、当時、法科として東の中央か西の立命かと言われた
中央大学に合格した。しかしその年、兄は睡眠薬による自殺未遂事件を起こし、横浜の叔父に発見されて自宅に戻って来てしまった。夜と昼が逆転したような生活で、薄暗い部屋に閉じ籠ったままの印象が残っている。僕は小学三年生だった。

 程なくして、今度は父が重度の腎臓病に懸かり、入院することになった。父は国語の教師だった。当時、妙薬と言われた副腎皮質ホルモンの投薬を受けていたが、その効果は薄く入院生活は長引いた。そんな時、文藝春秋に載った記事で父は愕然とした。アメリカのレーチェル.カーソン女史の書いた「薬毒論」がその原因だった。
(このままでは殺される)と思った父は、その日から服薬を止め、ベッド下に置いたビニール袋の中に溜め置いた。その代わりと言っては何だが、故郷(隠岐の島)の祖父母から送られて来た薬草を煎じた物を飲むようになった。僕がその運び役だった。回診の時、医者は「薬が効いて来ましたね」と言ったとか。ぞの数ヵ月後、父は退院した。

 兄は、精神分裂症(総合失調症)との診断で、米子市の医大病院へ入院した。当時としては公的に当たり前とされた(電気ショック療法)が行われたらしい。しかしその効果は薄く、兄は又しても自殺未遂事件を起こしたのだった。心配した祖父母の提案で、兄は生まれ故郷の隠岐の島へ帰り、祖父や叔父が営んでいた回送店の手伝いを始めた。その当時は、まだ港湾施設が充実しておらず、大型船は接岸できず、湾の中で錨を下ろし、島と船との中を取り持つ業者が必要とされていた。夜中に到着することもあるし、湾内とはいえ、時化の時には命懸けの仕事だったようだ。事実荷物諸とも海に転落したりの事故も少なくなかったらしい。何度か乗せてもらった経験があるが、小舟と言えどもとんでもなく大きな櫓漕ぎ船で、子供の力で操れるような代物ではなかった。そんな肉体労働が効を奏して、ついに兄は難病を克服したのだった。


 小学五年生の時、弟が生まれた。ほんとはその三年前にも義母は妊娠していたのだが、そのまた義母の猛烈な反対にあって、危険な時期であったらしいのに、堕胎したと後に聞かされた。当時はまだ、産めよ増やせよの時代であり、父にも義母にも避妊意識は皆無だったと思われる。
 それからが辛かった。自らの腹を痛めて産んだ子を溺愛し、苛められる事こそ無かったが、ほぼ放ったらかし状態であり、露骨とも思える食べ物の差別も始まった。僕はいつ頃から身に付けたのか、自己防衛的振る舞いが生まれて、周りの誰からも(笑顔よしの秋ちゃん)と言われるようになった。顔で笑って心で泣いて、まさにピエロ状態に陥ったのだった。

 教員という職業柄、父には転勤が付ものだった。ほぼ毎年のように住む場所が変わった。僕は得意の?ピエロ性をいかんなく発揮して、学校では先生方にも生徒にもそれなりに人気者だった。ずっとクラス委員にも任命された。そして当時始まった文部省の視聴覚教育の一環で、放送施設や放送部なるものが作られ、僕はアナウンサーを任命された。仲間が給食を食べている時に、「皆さん、こんにちは...」とやっていたわけだ。NHKの松江放送局でも講習を受け、アナウンサーとしての基礎中の基礎をたたき込まれた。あのときの経験を初心として貫けば、ホントにアナウンサーんを職業としていたかも知れない。
 同じ六年生の時、弓ヶ浜の自衛隊美保基地から来たヘリコプターに全校代表として乗せてもらい、松江市内の上空を飛んだ。「街が箱庭のようで、、、」と感想を述べた記憶がある。
 家庭内での重苦しさとは裏腹に、学校生活はいたって楽しかった記憶しかない。しかし、今では死語に近い言葉だが、お風呂はいつも母屋の(もらい湯)だった。母屋の人達が終わってからだから、日が代わる時間になるのも度々だった。母屋の人達はもう寝床に入っているし、まるで泥棒のような入り方だった。薪をくべて沸かすのは僕の役目だったが、入れて貰うだけでも喜ぶべき事だったのかも知れない。

 中学に入って、僕の環境は一変した。重苦しい空気に包まれてしまった。父が同じ中学校へ転任してきたのだ。しかも同じ一年生担当。僕らは段階世代だから、組数は十クラスと多かったが、それでも噂はすぐに広まり、生徒間はもちろん、先生方にもその目で見られ、がんじがらめの硬直したような生活が否応なしに突き付けられたのだった。

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井の中の蛙

「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、視野が狭く世間知らずというネガティブな解釈から、「されど空の青さ(深さ)を知る」が付け足されたことで、前向きな解釈が生まれてきたという。つまりは「真髄」を知ると言うわけだ。
 一つの道を極めようとする姿勢として考え出されたものらしい。僕的に逆を言えば、いくら世間全般を知っていたって、ただの物識りと言うだけで、自身に確固たる信念めいたものが無ければ、人が敬い崇めるような存在とは言い難い。そういう類いのなんと多いことか。つまりは、表現を変えれば、
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」というわけだ。

 頂上(目的地)に何が有るかを示されていても、更にその道のプロと言える先導者が居ても信じられず、隣の山や遠くの山々が輝いて見えるのは、浅はかとしか言いようがない。その事までも自覚した上で、一旦下山し他の山に登ってみるのなら、それはそれで意義ある事なのかもしれない。しかし、最初の山が本物であればあるほど、無意味な遠回りと言われても仕方がない。

 更に言えば、もう一度もとの山の入り口まで引き返して、次の一歩を踏み出すほどの決定心と忍耐力があるかどうかということだ。おそらく大方は引き返す事さえ億劫になり、諦め、そこらの道端に座り込んでしまうにちがいない。

 ここで大きな疑問符が浮かび上がる。それは..そもそも最初の山が本当に「宝の山」であったのかどうか、登ってみなきゃ分からないじゃないか、という問題。この判断基準は難しい。見方、判断を誤れば、とんでもない迷路に引き込まれて行くかも知れないのだから。ここでこそ、己の集大成とも言える決断力が試される。さらに加えて言えば、「若さ」である。若ければやり直しがきく。再チャレンジができる。
ここで先人達の言葉が生きてくる「若者には旅をさせろ」か「青年は荒野を目指せ」

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 六人もの兄姉がおりながら、三人が一誕生日を待たずに他界し、母も僕の三歳の誕生日の明くる日に他界した。程なく次の母が現れ、兄姉とは離別し、僕は一人っ子になった。母性愛欠乏症と自虐的に言っているが、なまじっか作り事ではなくて、自分で言うのもおかしいくらい奇妙奇天烈な少年時代、青春時代が待っていた。

 十歳離れた兄は頭脳優秀で、当時、法科として東の中央か西の立命かと言われた
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 程なくして、今度は父が重度の腎臓病に懸かり、入院することになった。父は国語の教師だった。当時、妙薬と言われた副腎皮質ホルモンの投薬を受けていたが、その効果は薄く入院生活は長引いた。そんな時、文藝春秋に載った記事で父は愕然とした。アメリカのレーチェル.カーソン女史の書いた「薬毒論」がその原因だった。
(このままでは殺される)と思った父は、その日から服薬を止め、ベッド下に置いたビニール袋の中に溜め置いた。その代わりと言っては何だが、故郷(隠岐の島)の祖父母から送られて来た薬草を煎じた物を飲むようになった。僕がその運び役だった。回診の時、医者は「薬が効いて来ましたね」と言ったとか。ぞの数ヵ月後、父は退院した。

 兄は、精神分裂症(総合失調症)との診断で、米子市の医大病院へ入院した。当時としては公的に当たり前とされた(電気ショック療法)が行われたらしい。しかしその効果は薄く、兄は又しても自殺未遂事件を起こしたのだった。心配した祖父母の提案で、兄は生まれ故郷の隠岐の島へ帰り、祖父や叔父が営んでいた回送店の手伝いを始めた。その当時は、まだ港湾施設が充実しておらず、大型船は接岸できず、湾の中で錨を下ろし、島と船との中を取り持つ業者が必要とされていた。夜中に到着することもあるし、湾内とはいえ、時化の時には命懸けの仕事だったようだ。事実荷物諸とも海に転落したりの事故も少なくなかったらしい。何度か乗せてもらった経験があるが、小舟と言えどもとんでもなく大きな櫓漕ぎ船で、子供の力で操れるような代物ではなかった。そんな肉体労働が効を奏して、ついに兄は難病を克服したのだった。


 小学五年生の時、弟が生まれた。ほんとはその三年前にも義母は妊娠していたのだが、そのまた義母の猛烈な反対にあって、危険な時期であったらしいのに、堕胎したと後に聞かされた。当時はまだ、産めよ増やせよの時代であり、父にも義母にも避妊意識は皆無だったと思われる。
 それからが辛かった。自らの腹を痛めて産んだ子を溺愛し、苛められる事こそ無かったが、ほぼ放ったらかし状態であり、露骨とも思える食べ物の差別も始まった。僕はいつ頃から身に付けたのか、自己防衛的振る舞いが生まれて、周りの誰からも(笑顔よしの秋ちゃん)と言われるようになった。顔で笑って心で泣いて、まさにピエロ状態に陥ったのだった。

 教員という職業柄、父には転勤が付ものだった。ほぼ毎年のように住む場所が変わった。僕は得意の?ピエロ性をいかんなく発揮して、学校では先生方にも生徒にもそれなりに人気者だった。ずっとクラス委員にも任命された。そして当時始まった文部省の視聴覚教育の一環で、放送施設や放送部なるものが作られ、僕はアナウンサーを任命された。仲間が給食を食べている時に、「皆さん、こんにちは...」とやっていたわけだ。NHKの松江放送局でも講習を受け、アナウンサーとしての基礎中の基礎をたたき込まれた。あのときの経験を初心として貫けば、ホントにアナウンサーんを職業としていたかも知れない。
 同じ六年生の時、弓ヶ浜の自衛隊美保基地から来たヘリコプターに全校代表として乗せてもらい、松江市内の上空を飛んだ。「街が箱庭のようで、、、」と感想を述べた記憶がある。
 家庭内での重苦しさとは裏腹に、学校生活はいたって楽しかった記憶しかない。しかし、今では死語に近い言葉だが、お風呂はいつも母屋の(もらい湯)だった。母屋の人達が終わってからだから、日が代わる時間になるのも度々だった。母屋の人達はもう寝床に入っているし、まるで泥棒のような入り方だった。薪をくべて沸かすのは僕の役目だったが、入れて貰うだけでも喜ぶべき事だったのかも知れない。

 中学に入って、僕の環境は一変した。重苦しい空気に包まれてしまった。父が同じ中学校へ転任してきたのだ。しかも同じ一年生担当。僕らは段階世代だから、組数は十クラスと多かったが、それでも噂はすぐに広まり、生徒間はもちろん、先生方にもその目で見られ、がんじがらめの硬直したような生活が否応なしに突き付けられたのだった。

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知己

友人、親友はたくさんいるけれども、

「知己」と呼べる人は少ないものである。

自分にとっての存在も然ることながら、

自分は誰かの知己たりうる存在であろうか?

いわゆるネット社会での「友達」はたくさんいても、

それらがホンモノの友であるかは疑わしい。

「あんたにオレの何が分かるんだ」と言う前に、

そのオレは、あんたの何を知っているのだろう?

表面上の友達感覚ではなくて、もっと深い部分での

お互い知己と呼び合えるほどの密度を保ちたいものである。

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感性

感性というものは、言葉でどうこう言える域ではない

ましてそれが似てるとか近いとかいう話になると余計にそうだ

目と目が語る

言葉なしで会話ができる

何も言わなくても足が同じ方向へ向かう

その空気を知った者にとっては

目には見えないが、掛け替えの無い宝物なのだ

誰も奪えず

誰も盗めない
………………………………………………………………………………

♪名前も知らない あなたと私
 なのに不思議ね 胸がときめく
 恋はこうして 生まれるものなのね
 教えてほしい あなたのすべてを
 今宵ひとりで歌う あなたへの歌




 
 
 
 
  

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一年草

    ねがい


   ただ 一つの

   花を 咲かせ

   そして 終る

   この一年草の

   一途さに

   触れて生きよう


      【坂村真民】

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それぞれの自分

そこそこ年令が行けば、人生は金でもない、

名誉や地位でもないことに気付くんだけど、

かといって、

山の奥に隠って仙人のような生き方をするわけにもいかず、

夜と朝と昼の想念の転回のなかで

それぞれの自分を生きているのです

それにしても…

新聞で読んだのだが、アメリカでは月収100万円を超える人が、

生活保護者的生き方をしているという実態

絶対値の比較の問題だから、ここで100万円を日本と比較はできないにしても

密林の奥のそのまた奥で暮らしているであろう人類に

畏敬の念さえ覚えるのは僕だけだろうか

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あるがまま

♪そこにあるから 追いかけて
 行けば はかない 逃げ水の
 それが しあわせ あるよでなくて
 だけど 夢見る 願かける
 花のように 鳥のように
 生まれたらいちずに
 あるがままの生き方が
 しあわせに近い

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【あるがまま】が難しい

なんとも難しい

好き勝手でもなく 破天荒でもなく

山水の清水のごとき心

誰にも 何ものにも汚されない在り方

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