新人研修の一環として、僕たちは離島に派遣された。
たしか一週間くらいだったと思う。それぞれの新人に補佐的に先輩たちが
同行したのだが、僕担当の人は彼女だった。選別者がどれだけの密度を
察知していたかは知らないが、明らかに意図的な配属だった。
どこまでも広がる水平線・・・
二人で小舟に寝転んで見た満天の星空・・・
淡く、純粋なスタートラインだった。
♪・・・あなたがいつか
この街離れてしまうことを
やさしい腕の中で
聞きたくはなかった
まるで昨日と同じ海に波を残して
あなたをのせた船が
小さくなってゆく
嘘偽りなく言えば、僕は欲しいものは無いんだ。
一つだけ言わせてもらえるなら、「母のぬくもり」と答えたい。
二十歳のころ、叔父に言われたっけ・・・
「おまえは、世捨て人みたいな奴だな」
そうさ、その通りさ・・・反論もせずただ笑っていただけ。
僕は仮の世に生きて、仮の宿で眠っているのさ。
心惹かれるひとに出会うと・・・
この人は母の生まれ変わりじゃないのか?
と真剣に思ってしまう僕なんだ。
古風に思えるが、メモ帳と鉛筆は貴重な携帯品だ。
車を運転している時など、ふと僕の頭をかすめる思いがある。
それが車の身に伝える振動のリズムにのって、だんだん韻律を帯びた表現に
成形してくると、無言の言葉として、口の中に繰り返される。そのうちに
それが独立して僕から離れ去ろうとする。その時だ、僕はメモ帳を取り出して
漸く読み取れるほどの字で書き留める。それが習慣となる。そして夜、
それらがこの場で文字化され、息吹を吹き込まれる。
細やかだが、貴重な自慰行為だ。
誰とは言わず、それぞれの人生に「時代性」は欠かせない。
こんな時代だから…とか,あんな時代であったなら…とか、誰しも思うところだろ
う。よく、「大正時代は良かった!」という話は聞く。昭和の戦後生まれの僕でさ
え、大正ロマンとか聞き覚えがある。明治の人は気骨があったとか、耳にするけれ
ども、昭和と言えば、六十年以上もあったわけだから、戦前、戦中、戦後という区
分けをされるのも必然的なことだろう。
自分の世代以外だと平成、令和となるととんと時代感覚は浮かび上がって来な
い。リアルというのは振り返る余裕を抹殺してしまうのだろうか。
著名人が消えてゆく。名もなき人たちも消えてゆく。
生あるものは、必ず死ぬ。それを言い聞かせ、言い聞かせしても、
どこかで自分はまだ死なないと思っている。
国民の代弁者たるべき代議士が、かけ離れた世界の人となり、言い訳と詭弁を
繰り返す。「井の中の蛙」じゃないけれど、「永田町の蛙」か?先生も先生だが
選んだ人も人、これがほんとの恥知らず。
世界とても同じこと。主語を置き換えるだけで、文章が成り立つ。おいてけぼりは
いつも国民、市民。言う側も、それだけ言うなら、お前がやってみろ!口だけなら
誰でも言うさ。
心も体も、山中深く入り込むか。
「善因善果、悪因悪果」と言うが、さっきコレをしたからすぐに結果が出るという
ことばかりではない。何十年の時を経て、出てくる答えもあるわけで・・・。
しかし悲しいかな、そうした時の流れは、「因」なるものを忘れさすことも多々
あるわけで・・・。
さらに怖いことには、何十年も経って出てきた答えの贖罪を試みようとしても、
当の本人が呆けてしまったのでは、それも叶わないわけで・・・。こればっかりは
代行というわけにもいかない。
善行と悪行・・・これは足し算、引き算が通用しない厳格な世界だ。「これだけ
悪いこともしたけど、これだけ善いこともしたのだから引いてくれ」が通用しない
世界だ。善悪ともにやったことはやったこととして、そのまま厳然と残る。
『念々死を覚悟してはじめて真の生となる。』
『我われ一人ひとりの生命は、絶大なる宇宙生命の極微の一分身といってよい。
随って自己をかくあらしめる大宇宙意志によって課せられたこの地上的使命
を果たすところに、人生の真意義はあるというべきだろう。』
森 信三
継母に子供が生まれて、世の通例通り、僕は孤立無援状態に陥った。
外面的には真面な家庭に見えたであろうが、実際は崩壊家庭と言ってよかった。
そしてまた必然的に僕の養子縁組話が頻発するようになった。叔父であり、叔母
であり、父と同じ勤務先の中学校の体育の先生であり・・・。
しかし、父は頑強に拒否した。僕にその真意は分からなかったが、とにかく
父は拒否し続けたのだ。そんな混乱の渦の真っ只中で、僕のピエロ性は見事な
までに完成品へと突き進んで行った。そして数年後、自ら家を出るという結果
を迎えたのだ。よく<親戚のたらい回し>という話を聞くが、内容はともかく
として、それからの五年間で、僕はあちこちの親戚と関りを持たざるを得ない
結果となったのだ。そのほとんどが利用されただけのことだったのだが・・・。
大学へ行けず(行かず)、世間という<荒波大学>に揉まれて、僕は履歴書
には書けない五年間を過ごすことになったのだ。
兄
僕は六人兄弟の末っ子だったのだが、そのうち三人が幼くして亡くなっている
ので残されたのは兄(九つ違い)と姉(五つ違い)と末っ子の僕の三人だった。
母が亡くなった時、兄は中学生だったので、そのショックは想像を超えたものであ
っただろう。
親の死が子供の精神に多大な影響を及ぼすことは理解できるが、その核心の部分
は当事者でなければ分からない。その計り知れない負荷が兄の精神に覆いかぶさ
り、兄は大学生の時とその数年後にもう一回、大量の服薬による自殺未遂事件を起
こしている。
小学生だった僕は、兄の夜と昼が逆転したような日常に、ある種の怖れを抱いて
いた。本人にしてみれば、長い長いトンネルだったに違いない。大学病院での治療
も効果なく、半ば周囲から諦められたとき、兄は祖父母の住んでいた生まれ故郷で
ある隠岐の島に帰り、叔父がやっていた回漕店の仕事を手伝うことになった。今思
えば、その過酷とも言える肉体労働が、精神に大きな好影響をもたらしたようだ。
数年で兄は快癒し、やがて母方の親戚の世話で神奈川県へ移住した。
今思えばの話だが、僕にも兄と類似した体験がある。高校の時の登校拒否であっ
たり、進学校でありながら大学受験を拒否し、父の入信した宗教であったとはい
え、そこの専従職員(宣教師)になったりと、親、親戚からすれば、「またこの子
もか・・・」」と思われたに違いない。
幸い、死を選ぶことはなかったが、還暦の同窓会の時、当時の彼女から「オウム
の事件の時、絶対ワタナベ君がいると思った」と言われたのには驚いた。当時の
僕はそれほどまでに精神的異常を露呈していたのだろう。学年でトップ50のクラ
スに在籍していながら、受験しなかったのだから・・・。クラスメート八人が東大
に受かったと聞いたのは、何年か経ってからのことだった。僕は広島の地で、骨皮
筋衛門?でオロオロと歩きまわっていたのだ。