六十、六十五歳の定年退職者の
一種悲哀の籠った話がテレビで流れている。
まさしく同世代。さて我は?
「生涯現役」は言葉としては響きがいいが
現実はなかなか厳しいものがある。
それなりの覚悟というか諦めというか・・・
守らなければならない家族がいる。
返さなければならないものがある。
家族も含めて優先すべきことは多々あっても
自分個人の優先は赦されない。
家内や子供たちの病院通いの運転はしても
自分のことで病院へ行くことはない。
そのための節制であり鍛錬であり自重であり・・・
最後の砦は逞しくなくてはならぬ。
押忍!
心の中で身構える。
攻めと守りの体勢固め。
メソッドは無能な者を掬いあげるための方便のようなものですが、メソッドで得られるものはせいぜいが並の上といったあたりの常識的な世渡りにすぎません。努力も同様です。頑張ればなんとかなるなどということをしんじているような者は敗者です。
父の念頭に社会性云々があったならば私をちゃんと通学させたでしょう。けれど父にとって学校教育など、どうでもよかったのです。ですから強制的な読書で文章が書けるようになるのかと問われれば、私の場合はそうだ、と答えましょう。脳も軀の一部であるがゆえに、筋肉と同様に負荷を与えなければ瘦せ細っていくのではないか。そんな屁理屈を胸に、私はいまでも読んで理解のできない書物を好んでひらくのです。
以前に引用したA・ジェンセンの『知能は遺伝的要因で八十パーセント、環境要因で二十パーセントがけっていされてしまう』という研究結果は実感的に正しいと感じられます。穴のあいた水瓶に水を注いでも無駄であるということです。
「父の文章教室」 花村萬月
僕は一番が嫌いだった。いや、一番には逆立ちしてもなれなかったのだから
言い方を変えれば、二番、三番というポジションが居心地よかった。
僕の小学校時代は三学期制で、一学期の学級委員は一番賢いやつ(がり勉くん)が
任命されていた。三年生から六年生まで、僕はずっと二学期の委員だった。
大方が貧乏の時代だったけど、僕は幼稚園にも行けず、ランドセルも買ってもらえ
なかった。だから、風呂敷に教科書なんかを入れて登校していたのだけれど、
それも恥ずかしくなって、全部教室の机の中に置いて帰るようになった。
あのころ宿題と言うものがあったのかどうかも記憶がないけれど、適当に切り抜け
ていたのだろう。
教師の父は、そんな僕を知ってはいたのだろうけれど、諫めるようなことはまった
くなかった。その代わりにやたらと「本を読め、本を読め」と言われた。
そこそこの年齢になってからも「わからなくてもいいから、最後のページまで
読め」「英語の原書を読め」と口うるさかった。
父の死後、兄と姉が相次いで亡くなり
ついに・・・独り
六人兄弟の末っ子
実母は三歳の時、病死(破傷風)
三人の兄と姉は幼くして病死
残った兄と姉は早くから家を出たため、一人っ子のようなもの
そういう自分も16歳で家を出て・・・
まさしく〜さすらい人の子守歌(旧web版 Ne'o activity)