僕は一番が嫌いだった。いや、一番には逆立ちしてもなれなかったのだから
言い方を変えれば、二番、三番というポジションが居心地よかった。
僕の小学校時代は三学期制で、一学期の学級委員は一番賢いやつ(がり勉くん)が
任命されていた。三年生から六年生まで、僕はずっと二学期の委員だった。
大方が貧乏の時代だったけど、僕は幼稚園にも行けず、ランドセルも買ってもらえ
なかった。だから、風呂敷に教科書なんかを入れて登校していたのだけれど、
それも恥ずかしくなって、全部教室の机の中に置いて帰るようになった。
あのころ宿題と言うものがあったのかどうかも記憶がないけれど、適当に切り抜け
ていたのだろう。
教師の父は、そんな僕を知ってはいたのだろうけれど、諫めるようなことはまった
くなかった。その代わりにやたらと「本を読め、本を読め」と言われた。
そこそこの年齢になってからも「わからなくてもいいから、最後のページまで
読め」「英語の原書を読め」と口うるさかった。
父の死後、兄と姉が相次いで亡くなり
ついに・・・独り
六人兄弟の末っ子
実母は三歳の時、病死(破傷風)
三人の兄と姉は幼くして病死
残った兄と姉は早くから家を出たため、一人っ子のようなもの
そういう自分も16歳で家を出て・・・
まさしく〜さすらい人の子守歌(旧web版 Ne'o activity)