森の中の施設をまだ薄暗い時間に出発して、僕たち二人は麓の学校へと向かった。舗装のされていない曲がりくねった坂道を、半ば転げるように歩いた。
途中で不気味な物体が走りあがってくるのが見えた。かなり大きい。上はダチョウのような首の長い鳥のようでもあり、下は恐竜のようで二足歩行している。しかし不思議なことに目は人間の目そのもので、何かを語りかけているようにも見えた。
しかし、その動きは僕たちに襲い掛かる雰囲気がありありで、近づくにつれ恐怖を覚えた。すれ違いざまに大きな羽で突き飛ばされそうになったが、咄嗟の判断で体を屈め、羽の下をすり抜けた。後ろを振り返らず僕たちは一目散に坂を駆け下りた。
学校へ着くと、もう始業時間寸前だった。学年の違う友達と別れて、僕は三階の教室へ急いだ。入口の戸を開けると、全員着席済みだった。見ると、僕の座る席がない。そうだ・・・僕はもう三カ月も登校していなかったのだ。しばらくして、一番前で机を動かす音がした。まるで邪魔物のように机は後ろの生徒のそれに引っ付けられていたのだった。机を動かした生徒が、不審げに僕を見つめてすぐに下を向いてしまった。
先生が入ってきて、いきなり問題用紙を配り始めた。期末試験?とんでもない日に登校してきたものだ。周りの生徒も緊張のせいか、久しぶりに登校してきた僕のことなんか気にしてられないという雰囲気だった。
数学だった。一問目で僕は設問の不備を見取った。確率の高い答えをまず書いて、空白の部分に、設問の是正(補充)とそれに対する答えを書き記した。他の四つの問題はスラスラと解けた。
正味十五分で、僕は答案用紙を提出した。みんなが怪訝な目で僕を見ていた。窓際に座っていた富田君がチラッと僕を見た。かすかに笑っているようだった。彼はクラスの中でも別格だ。一発で東大に合格だろう。僕はそのまま屋上へ上がって行った。
冷たい風が吹き抜ける屋上で、校庭を見下ろせるところに立って、なぜか僕は三島のポーズをとった。両手を腰にあて、やや斜め上方を見やって、何かを叫ぼうとしたが、言葉は出てこなかった。
施設のある方角の森から、朝出くわしたあの怪物が飛んでくるような錯覚を覚えた。
「それで、あの家にこのままの流れで一生いたら、ますます気のいい人間になってしまうんだよ。」
「それの何がいけないの?」
「いけなくはないんだけど、僕が思うに、それは本当の気の良さじゃないんだ。平和で、お金もあって、時間もあれば誰でも人は優しくなれるでしょう?それと同じで、このままではそういう時だけの気のよさになってしまうんだ。それで自分の中にいやな黒いものが育っていってしまう。もしくは、うすっぺらい気のよさで一生終わってしまう。僕はせっかくもともと気がいい男なんだから、できることならその気のよさを育てたいんだ。黒いものではなくて。」
「幽霊の部屋」 よしもとばなな
「僕のガールフレンドは心理学を勉強しているんですけど、彼女に言わせるとね、たしかに僕には、家族に限らず、他人との衝突を極力避けようとする傾向があるんだそうです」
そしてそれは、幼い頃に母を亡くした衝撃的心傷(トラウマ)があるからだというのである。
「僕自身は覚えていないけど、三歳のころの僕は、きっと何かいたずらをしたり、母のいうことをきかなかったりして、母に叱られていたはずなんです。そうしているうちに、母はふっつり姿を消して、家に帰ってきてくれなくなってしまった。だから三歳の僕は、無意識のうちに、僕がお母さんの言うことをきかなかったから、お母さんはいなくなってしまったんだと考えたんだと、彼女は言うわけです。そしてそれが心にしみついて離れない。だから今でも他人と衝突したくない。衝突したら、きっとその人は姿を消して、二度と戻ってきてくれなくなってしまうって、そう考えてしまうから」
「理由」 宮部みゆき
図星だわ・・・
(作:安藤氏)