ひとつ山を越えれば
また次の山が迫る
ひとつ谷を渡れば
また次の谷に出くわす
野営のテントは破れて
雨風も凌げない
携帯が震える
確認しなくても分かっているさ
出れば
発する言葉が嘘となる
出なければ
なおのこと罪深くなる
迷路という認識はない
向かう方向は間違っちゃいない
如何せん
障害物が多すぎる
人力でしかも独りで
跳ね除けるには重すぎる
CRY CRY CRY
前記事の内容に似て、僕にも似通った経験がある。あれは高卒後の18歳のことか・・・僕はある宗教団体に所属していて、専従布教師の見習いとして、岡山県にある支部に派遣された。先輩先生のもとで種々勉強をさせていただいたわけだ。
ある日の事、未舗装の道路を先輩の運転するバイクの後ろに乗せられて走行中、車輪が砂利に引っ掛かって左右にぶれた。そのはずみで僕は後方に大きく振り落されて、顔面と言わず腰と言わず路面に激しく打ちつけられしまった。
その直後のことはまったく記憶がなく、気が付いたら僕は布教所の布団の上に寝かされていた。事故後まる二日、僕が記憶を失っていたらしい。所属していた宗教団体は、教義として余程の事がない限り、病院へは行かなかったのだ。
意識は回復したが、打撲は凄まじかったようで、僕は寝返りさえうてない状態だった。眼鏡と時計のせいで、右の眉毛の横と、右手首にかなりの傷を負っていた。一旦目覚めたものの、その後はまたしても昏睡状態となり眠りつづけたらしい。
布教所はご信者である農家の母屋の離れの二階にあった。母屋には横須賀に嫁いでいた娘のA子さんがお産のため帰省していた。25〜26才だったろうか。すでにお産を終えた身で、そのひとが僕の世話をしてくれた。赤ちゃんのことだけでも大変だったろうに、意識のない時も、ずっとそばにいてくれたらしいかった。
身体を拭いてくれたり、包帯を取り換えてくれたり、おそらくは下の世話もしてくれたろうに、僕にはその記憶がまったくない。二週間目にやっと僕は起き上がりトイレに行くことができたのだった。
事故から一週間くらい経ったとき・・・
空には梅の花が、土には福寿草が、春の光をいっぱい浴びています。その光の中から嬉しいお便りが届きました。思いがけないお便りに接して、今日は一日、うきうきしております。
歌友・・・なんてよい言葉でしょうか。三國さんのような方に、歌友なんて呼んでいただけて幸せいっぱいです。
わが歌に熱きおもいを寄せたまいし君の消息絶えて久しも
・・・とかなしいい思いを詠まずにいられなかった時もありました。でも、三國さんの美しいお言葉の詰まったお便りをいただくだけで、そんな寂しい日々のことなど、吹き飛んでしまいます。
「沈黙のひと」 小池真理子
亡き父にも・・・
今で言えば、ツイッターのようなものかもしれなかった。文字通りの、最晩年の父のつぶやき。誰のも明かすつもりのない胸の内を、日夜夜毎、綴っただけの自慰ようなしろもの。死にかけた老人のロマンティシズム、センチメンタリズム、愚痴、後悔、不安、諦めがこれでもかと詰め込まれた、ただの日記、がらくたのような散文・・・。
「沈黙のひと」 小池真理子
この中に・・・
その介護付き有料老人ホームは、松江市の郊外にあった。年に一度か二度、帰省した時には、必ず立ち寄ることにしていた。
そこには、叔父が入所していた。母方で生きているたった一人のひとであり、幼くして母と死別した僕たち甥や姪の親代わりのような人だった。戦争の傷のせいで、自分には子供が無かったことも原因していたかもしれない。
叔父は、父や他の叔父さんたちと同じく教職に就いていた。そしてやはり校長としてその職を全うした人だった。祖母がそうだったせいなのか、叔父は大柄で恰幅のいい人だった。誰に似たのかいつも辛口トークで、僕たちを怯えさせまた笑わせた。
家族五人で訪問した時、叔父は殊更元気ありげに振る舞ってくれたが、何度も何度も「アンタ、名前は?」と息子たちに問いかけた。かなり認知症が進んでいるようだった。案内のスタッフの女性が、「先生をしてらしたせいか、廊下ですれ違うと『おはよう!勉強せ〜よ!』っていつも仰るんですよ。いつまでも校長先生なのね」と笑いながら話してくれた。
帰る時間になると、入浴を済ませた叔父は、テレビのある大きな休憩室で、車椅子に座ってぼんやりとテレビを観ていた。ただテレビの方を向いているというだけで、その中身を理解しているようには感じられなかった。
僕が近寄り、肩を叩いて「おじさん、じゃあ行くからね」と言うと、叔父は淋しげに振り向いて「ああ・・・」と言った。終ぞ僕が何ものなのかは判らないままのようだった。
ドアのところで、もう一度叔父の方に目を向けると、右手を上げてサヨナラをしているように見えた。この一瞬だけ、叔父に記憶が蘇って、「あきお・・・ありがとう・・・」とホントにサヨナラをしてくれているように思えて、僕は涙を堪えらえなくなってしまった。
これは、僕の勝手な持論かもしれないけど
きみが失ったと思っているそのことは
実は、元々離れて行くべきものだった・・・と言えるのではないでしょうか
事の原因を、自分だけに向けて考えるのはお止しなさい
自覚、無自覚のどちらであれ
為したことは、必ず己に還ってくるわけですから・・・
本人(相手)が、どんなに正当化しようが誤魔化そうが
一番よく知っているのは本人自身なんですから・・・
ただ、この種の問題は十対零ということはあり得ません
認めたくないでしょうが、必ず何某かの非があなたにもあるのです
「善因善果、悪因悪果」とはよく言ったものですね
すぐに見せられるのは幸せと言えるかもしれません
とんでもなく後で、忘れてしまったようなときに
これがあの時の答え(報い)ですと突き付けられるのは怖い話です
対等に立ち向かうことは、相手と同じ次元に落ちるとよいうことも言えるのですよ
偉そうなことを書き並べてしまいました
読んだら一度忘れてみてください
そして、落ち着いたときに、もう一度読んでみてください
<人間の味>というものは、年を重ねる毎に増して行く。
僕が当時の彼女に誘われて観に行った映画が「卒業」だった。
当時、僕はダスティン・ホフマン演じる男と同世代だった。
映画に誘った彼女は、僕より5才年上だったわけだが、その中身に自らの想いを代弁させたのかもしれない。でも、これは随分と時を経てから思い至ったことだ。
今も思い出す残像としては、黒い下着や、教会の窓を叩いて彼女の名を叫ぶ姿や、S&Gの音楽だ。
その作品を介して、僕に彼女がどこまで語ろうとしたのかは、後々になって気付いたことである。
今日、はるか時を数えて、ダスティン・ホフマン(&エマ・トンプソン)主演の映画を観た。
数々の経験を経た人間でなければ、語れない言葉がある。仕草や表情もある。
ありのままの自分を、そのまま曝け出せる相手は、そうざらにはいない。
ましてや、ともにそれを認め合える相手ともなれば・・・。
どんなに挫折を経験しようが、年を重ねていようが、そういう対象者に巡り会えた人は、世界一の幸せ者と言っていいだろう。