あなたがとても疲れて
自分を卑小だと感じている時
涙が両目からあふれる時
私がすべて拭い去ろうと思う
あなたの人生が波乱に満ちて
友達がひとりもいない時も
私はあなたの味方だ
荒れ狂う流れの上にかかる橋のように
私は私をあなたの人生に差し出そう
荒れ狂う河に耐える橋のように
私はきっとあきらめない
あなたが落ち込んで道を外れ
人生の波乱にやられて失業し
これから夜を迎えねばならない時間がしんどい時
私があなたを慰めようと思っている
闇が襲ってきて、あなたの全身を痛みが襲う時
私があなたの一部になろう
折からの波で水面が激しく揺れているその上にかかる橋のように
私は自分を捧げだそう
洪水に耐える橋のように
私はあきらめずにい続ける
出航の時だ
あなたの時間が輝くのだ
あなたの夢が叶っていく
あなたの夢に満ちた時間が輝くのをごらん
もしあなたが友を必要とするなら
私がすぐ後ろを航行しているから大丈夫だ
洪水に耐える橋のように
私があなたの心配を和らげたい
大波にやられてもなお揺るがない橋のように
私があなたの悩みをなくしたい
二十歳の夏の日曜日、僕は彼女から映画に誘われた。
その映画は、ダスティン ホフマン主演の「卒業」だった。
映画館へ行くのは超久しぶりで、子供みたいにわくわくしたのを覚えている。
題名は聞かされていたわけではなくて、映画館に入るときにポスターで知った。
内容は、二人にとっても刺激的なものだったが、僕はS&Gの音楽に魅了され
た。(サウンド オブ サイレンス)(スカロボローフェア)(ミセス ロビンソ
ン)後々まで、これらの曲を聴けば、映画のシーンが蘇るというわけだ。
見終わって、夕暮れ時の湖畔沿いの道を、二人手を繋いでゆっくりと歩いた。
交わす言葉は何もない。指に伝わる感触で、映画の一コマ一コマを思い出している
のが分かった。そしてそれに伴う心の語り掛けさえも・・・。
「結婚」・・・五つ年上の彼女には重いテーマが現実問題としてのしかかって
いたのだ。映画のストーリーほどドラマチックなものでなくても、超鈍感男の僕に
にでも、それぐらいの心の揺れは感じ取ることができた。
僕たち二人は同じ教会の専従職員だった。僕は布教師の卵、彼女は事務職員だっ
た。もちろん先輩の男性もたくさん居たし、彼等からすれば、僕はまだコドモ中の
コドモ。彼等こそが彼女へのアプローチをかけていたというわけだが、なぜか彼女
は拒否反応、対象者は僕というわけだ。
秋を迎えて、久しぶりに教会で会った父が言った。「いい人じゃないか、結婚し
ろ!」「えっ!」どこでどういう接点が生まれていたのか?またしてもこの鈍感男
には理解不能だった。三歳で母親と死別し、兄姉が六人も居ながら、三人が幼くし
て他界。残った兄姉は歳が離れていたし、ひとつ屋根の下で暮らした経験はほとん
どなく、ぽつんと一人っ子みたいに育った母性愛、兄弟愛欠乏症の僕には、彼女の
ようなグイグイと引っ張ってくれるひとが最適と、父は考えていたようだ。どうや
ら彼女は、僕より先に父に僕との結婚を申し込んだようだ。
徒手空拳、何の地位も金もない僕に、何ができると言うのだ?人生の荒波の序曲
はここから始まったと言っても過言ではない。
18歳の時、僕は市の公会堂で、聴衆2000人の中、生バンドをバックに歌った。
曲は坂本九の「明日があるさ」場内は照明がゆるかったので、さほど緊張はしなか
った。のど自慢大会なら<鐘二つ>と言った出来だっただろうか。本当は生来の恥
ずかしがり屋で、赤面症という臆病者だったが、放送部でのアナウンスや合唱団で
の経験が、徐々に僕の心臓を大きくしてくれていた。
自分から進んでやったわけでもないから、これはひとえに、そういう場を経験さ
せて下さった担任の田辺先生や福原先生のおかげだ。そしてもう一人、成人後の僕
を大改造してくれたステッファニー先生。
恩師は時代時代に顕れる。
♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もう来る頃もう来る頃
今日も待ちぼうけ
明日がある明日がある
明日があるさ
夢は不思議極まりない
貴女も貴男も超リアルに登場する
場面設定さえも・・・現実そのもの
元気そうで何よりだよ
だからと言って、電話やメールをする勇気はない
あの世の人たちとの共演?が受け入れられない
少なくとも・・・
君たちは、僕を恨んではいないようだ
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、
ホントに彼岸が開けて、急に涼しくなった。
赤トンボもその時を知り,わがもの顔で飛び交っている。
♪今はもう秋...この歌を聴いてしんみりするのもすぐだろう。
退職願を出して三カ月間の軟禁?状態に置かれていた僕に、更なる追い打ちが襲い掛かってきた。三階の事務所にいる僕に一階の事務員から内線電話がかかった。「渡部さん、来客です」???不審に思いながら降りて行くと、見るからにそれらしき人物が椅子に腰かけて脚を組んでいた。
「こういうもんやけど・・・」と言いながら名刺を差し出してきた。金文字の名刺だった。「もうわかってるやろ・・・そこの喫茶店で待ってるわ」と言い残して出て行った。事務員さんが「大丈夫?」と言って心配顔を向けてきた。
三日前に自宅にかかってきた電話で心の準備は出来ていた。僕のこの会社への紹介者であり、住宅購入時の恩人である人の会社が倒産の危機に瀕していたのだ。最後のあがきで借金をするときの連帯保証人の三番目に僕の名前と実印が押されていたのだ。恩人は裏切れない・・・。上位二者はすでに行方をくらましていた。そのうちの一人から電話が入っていたのだ。「自分らだけ逃れやがって!」と思ったが、足掻いても仕方がない。
指定された喫茶店へ行くと、借用証書をテーブルに差し出して、額の所をトントンと指で突いた。僕は間髪を入れず「明日、此処へ来てください。用意しておきます」と言った。相手は拍子抜けしたようにへっ!という顔をした。そして「そ、そうか、ほな明日な」と言って出て行った。
僕は社に帰り、社長に言った。「社長、退職金を明日いただけませんか」社長は「そ、そうか・・・ほな明日用意しとくわ」と罰悪そうにつぶやいた。何のことは無い僕をこの会社に斡旋したその人は、社長の愛人だったのだ。最後のあがきの金づくりのためのサラ金周りの当事者が僕だったことも知っているはずで、ノーとは言えないことは分かっていた。
翌日、喫茶店で帯封の札束の入った封筒を差し出すと、相手はその数を確認して、「おまえ、良い奴っちゃな」と言って札を一枚抜いて僕に差し出した。「ほな!」と言って店を出て行った。瞬時に「借用書を返せ!」と思ったが、もう来ないだろうと言う確信めいたものがあったので、後を追うことはしなかった。
社に戻ると、事務員さんが心配そうな顔をしていた。僕は無言で片手を挙げて「大丈夫!」という合図をした。表向きはそうだったが、内心はやや暗雲が立ち込めていた。ギリギリの状態の時、僕は恩人社長とサラ金巡りをして金策をしていたのだ。しかも僕名義で。休む間もなく、三社のサラ金会社を廻った。日がずれればずれるだけ利息がかさむ。こんな経験は二度としたくないと心に誓った。
叔父の誘いに乗って、僕は遥か隠岐の島まで来ていた。港湾建設会社を退職して、独立した叔父の手伝いをたのまれたのである。事務員兼、現場監督兼、ダンプ運転手兼、小型船舶操縦兼、潜水夫の命綱兼、・・・何でもやらされた。
作業員のほとんどが鹿児島からの季節労務者だった。一日の終わりには飯場で彼らと一緒に飲み食いした。子供のような存在の僕は、みんなに「あきちゃん」と言って可愛がられた。酒には強かったが、彼らの飲む度の強い焼酎には参った。飯場を抜けだして波止場に寝っ転がり、星空を見るのが習慣だった。
そんなある夜、永田さんが僕に話しかけてきた。他の人たちとはちょっと違う文士のたたずまいの人だった。たぶん他の仲間とは異質な存在だったのだろう。訊けば、故郷では村史の編纂に携わるような立場と聞かされた。
この出会いから数十年、僕たちは文通をした。筆まめな人だった。日本の何処の地へ派遣されても、手紙をくださった。僕には及びもつかない文人だった。父とイメージが重なった。
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「給料は、ワシが払っとるんじゃ!」会議室に社長の声が響き渡った。深夜まで及んだ労使交渉、社員側代表の僕は言った。「社長、それを言っちゃあお終いですよ。もう此処までにしましょう」僕は立ち上がり会議室を後にした。同席していたほかの社員たちも僕の後に続いた。
この交渉の会議に持ち込むため、僕は事務員さんに秘かに頼み込んで、会社の経理状況を把握していた。言わば二重帳簿に近い経理が行われており、会社利益の八割もの額が社長親族に流れていた。同族会社の典型とは推測してはいたが、正直ここまでとは思わなかった。
その会議の後、僕は五人もの部下の送別会をした。年齢も若く、未来ある彼たちをこの会社に引き留めることは僕自身が許さなかった。もちろん僕も退職覚悟の上で。
僕が社長に退職届を提出した時、耳を疑うような言葉が返ってきた。「退職届は三カ月前に出すものだ。その日まで、お前は得意先には行かなくていい。電話も出なくていい。」何とも理解不能な言葉が返ってきた。退職金の額が知れているとは言え、妻や三人の幼子のことを思うと、この言葉には従わざるを得なかった。
後で分かったことだが、表向きには、僕は退職したことになっており、僕の担当していた得意先には、社長と社長夫人と次の担当者が廻ったらしい。そんなこととは知らず、僕は毎日、事務所で読書三昧の生活を余儀なくされた。
退職して三日も経たないうちに、担当してしていた得意先から自宅に電話がかかった。「渡部君、どうしたんだ?」「はあ、会社辞めました」「それならそれで、何故挨拶に来ない!ただ、担当が代わるだけでは納得いかない」「はあ?何処へも行くなと言われたもので・・・」「それにおまえの悪口を散々聞かされた。まさかお前がそんな奴とは思いもしなかったがな」「はあ・・・」「それで、これからどうするつもりなんだ?」「はあ、失業保険が貰えるんで、じっくり考えようと思っています」「まったく、別の業界に行くのなら別だが、同じことをするのなら、今すぐ来い!」
同じような電話が、僕が担当していた得意先から次々とかかってきた。最初に電話をくださった得意先に伺うと、こう言われた。「君が、独立するからよろしく頼むと言ってきたらこうは思わなかったかもしれない。それに社長がお前に暖簾分けでもするというくらいの器量があったら、こうは思わなかったかもしれない。それどころか、社長はお前の悪口を夫婦そろってならべたてたからな。お前がそんな奴とは思ってもいないから、その場は適当にして帰ってもらったんだ。」
退職後、わずか数週間の間に、担当していた得意先三十社のうちの、ほとんどが僕と契約を結んでくださった。失業保険どころか、雇われ人の頃の何倍もの仕事に追われることとなった。まさに嬉しい悲鳴とはこのことだ。
あれから数十年を経過して、あの会社が脱税と不正行為で新聞記事に載るほどの会社になり下がるとは思いもしなかった。しかも聞けば内部告発とのこと。僕よりも激しい正義感の持ち主がいたってことか。まるでテレビドラマでも見るような結末に、僕は自らに言い聞かせた。「正義は勝つ!」