正と邪、善と悪、美と醜など、ときに人は物事をばっさりと二分して捉え
ようとする。自分は、正しい側でいたいと願う。しかし、実際は、そんな単純な
ものではない。光の当て方によってはどちら側とも言えるし、ひとつの言葉では
表せない。矛盾した要素をそなえているもの。多面的で多義的である。人生とは、
すべからく「メビウスの帯」のうえを歩いているようなものかもしれない。
そして、いつも理解してくれない反対側へ「片想い」しているのである。
吉野 仁 (「片想い」解説)
「その頃の私にとって、家は単なる寝るための場所でした。若くて野心があり
ましたから。学校で生徒を教える以外にいろいろな研究会や勉強会の活動に
携わってたんです。娘の顔をまともに見ない日が殆どという有様でした。
仕事が忙しくて家庭のことを顧みないということが、さほど非難される
時代でもありませんでしたから」
「今から考えると恥ずかしいかぎりです。自分の家で何が起きているのかも
知らないで、教育者もないもんです」
「片想い」 東野圭吾
僕の幼少期、そして小学生、中学生、さらには高校生になっても
上記小説中に出てくる家庭と酷似していた。
更に言えることは、僕の場合、三歳にして実母が居なくなったことが
致命的だった。
継母はまったくもって絵に描いたような典型的な継母だった。
人間の生命が、たがいに呼応し共感し得るということは
何たる至幸というべきであろうか。
世にこれに勝るいかなるものがあるであろうか。
森 信三
「いいんだよ、わかってる。
何もかもオレの自己満足だし一人相撲なんだ。
永遠の片想いってやつよ。
だけどそれでもオレにとっては大事なことなんだ。」
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永遠の片想い、か・・・。
その気持ちは何となく理解できた。
無意味だとわかっていながら、こだわらずにはいられない何か・・・
誰だってそういうものを持っている。
「片想い」 東野圭吾