小説の作者とはまったくの同世代だから、当たり前と言えば当たり前なのだが、作品の中の時代背景や登場人物や固有名詞やストーリーの展開が、自分の歩んできた幼少期から青年期の道程とあまりに酷似していて、文庫本6冊の中に引きこまれていった。
一歳半の母の記憶⇔僕はちょうど三歳の時の母の残像。
小学生の奇妙な女友達⇔僕には奇妙ではないが鮮明な思い出。
父と自分のかかわり⇔僕もくっついて生きるしかなかった。
宗教性⇔これはもっとも比重が重い。いい意味でも悪い意味でも。
学力、優しさ、包容力、弱きを助ける⇔彼には劣るが質的には同じだ。
ミックジャガー、「ミクロの決死隊」⇔同時代を生きた証。
逃亡、脱出、追手⇔体験した者にしか分からない極限。
暴力、自殺⇔家庭内不和、自殺未遂(僕ではないが・・・)
報復、復讐⇔法に触れないギリギリの反撃。
痴呆、療養施設⇔まったく同じ状況だ。
昏睡者への語りかけ⇔魂〜核の部分が聞いている(体験済み)。
何事にも<裏と表>がある。それは紙一重だ。
<善と悪>と言ってもいい。
<良心と邪心>と言ってもいい。
誰もが持ち合わせている両極・・・どちらが攻め勝つか?
一個の人間の中で、その闘いは延々と続くのだ。
あれは小学校の低学年のころだったろうか。僕は父が勤務していた田舎の小学校の宿直の時、一緒について行って宿直室で泊まったことが何度かある。教室棟からちょっと離れた場所に用務員室があり、そこが宿泊場所となっていた。当時は用務員のひとを「小遣いさん」と呼んでいたような記憶がある。曖昧だが・・・。あるいは夫婦だったのかもしれない。晩御飯をごちそうになった記憶もうっすらとある。
夜の何時ごろだっただろうか、決まった時間に校舎の見回りが義務付けられていた。父は懐中電灯ひとつを持って部屋を出た。僕は一人で部屋に残される方が怖くて父の後をついて行った。たぶん夏のことだったんだろう、まわりの田んぼからはカエルの鳴き声が喧しかった。
父は不意に電燈を消して僕を驚かせたり、わざと怖い話をして僕の反応をおもしろがったりした。かと思うと、急に大声で歌を歌いだしたり奇声をあげたりした。(後々僕はそれらの行為を宮沢賢治的と捉えてよく思い出した)
見回りのあるとき、僕はお腹の調子が悪くなり、父に訴えた。その時の父は一緒に便所までついて来てくれて、「腹を時計回りにグルグルグルグルとゆっくり回すんだ」と言った。「もっと姿勢をちゃんとして!」言われた通りにすると、やがてお腹の中でゴロゴロしていたものが、一気に下降してスッキリとした。
似たようなことが生まれ故郷の隠岐の島へ帰る船の中でもあった。いわゆる船酔いなのだが、父は僕をトイレに連れて行き、「人差し指を喉の奥に突っ込んで下へ押してみろ!」と言った。半信半疑ながら言われた通りにすると、「オエッ!」という声とともに腹の中のものが口から飛び出してきた。「もう一度!」何回か繰り返しているうちに、もう吐き出すものはなくなってしまった。その時はどうなることやらと思えるような苦しさだったが、あとは爽快そのものだった。
僕は甲板に上がって日本海の荒波を前に、大きく深呼吸をした。