◯「行って余力あらば以って文を学ぶ」
つまり学問が人生の第一義ではなくて、生きることが第一義である。
◯人間は人生のうち、何処かで一度は徹底して
「名利の念」を断ち切る修行をさせられるのがいい。
【森 信三】
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まさにその瞬間瞬間には、そんな意識が働いていたわけではなく、
懸命に生きて、足掻いて足掻いて、うんと時が経過してから、
「あぁ、あの時のあの経験が、いまの自分の肥やしになっているのだな」と
感慨深く思い出せるのです。青春真っ只中の時代であったればこそ。
大多数の同世代が、高度成長の時代の流れの中で、受かれるとまでは
言わなくても、当たり前面はして、じだいを謳歌していたわけだから…
何かの記事で読んだのだが、
北欧では、いわゆる「寝たきり老人」はほとんどいないらしい。
何故か?
答えは明白、「寝たきり」になる前に死んでしまう。
残酷なように聞こえるが、どっちが本人のためか?と問われれば、
うーんと考えこまざるを得ない。
日本人の美徳と言えるかどうかは疑問だが、まだ心臓は動いているのだから…
の理由で延命処置を取ることが、果たして本人のためかどうか?という話。
僕の祖母の時にも、そんな場面はあった。その時代はそれが許されたのだろう。
病院側と親族側との「阿吽の呼吸」で、生命維持装置が外されたのだった。
果たしてそれが…という話。世話をするのが面倒だとか煩わしいとかの話ではなく、
当の本人のためを思えば…の話。
安楽死とはまた違ったレベルでの話。
世の中、誰も彼もがすべて順調であるわけではない。
むしろ、事の大小はあれ、それぞれが色んな悩み事を抱えて生きている。
それが人生というものなんだ。
要は、そこからの歩み方、対処の仕方で、方向は大きく変わっていく。
何か深刻なプライベートの問題を抱えていても、
一々人様に打ち明けられるわけでもない。
そこで、思い遣りとか憐憫の情とか援助とか生まれてくるわけだ。
僕のモットーは【何事もさりげなく】だが、独りでは抱え込めない事柄も時にはある。
その時に、どんな方法で吐き出すか、爆発を阻止するか、それが問題だ。
自分一人で抱え込みすぎると、間違いなく精神を病む、心が壊れる。
その後でどうこうしたって、手遅れのことが多い。タイミングがキーポイントだ。