疲れ果てていることは
だれにも隠せはしないだろう
ふらふらとたどり着いた館の門番が
無表情に立っている
その主に声をかけようとしても
喉の奥に引っかかって
音化することすらできない
無声映画のように
パントマイムのように
試みてはみたが
ど素人に言葉は宿らない
みんなそれぞれにバックボーンがあって
それに支えられて生きている
それが色褪せた時、消え失せてしまった時
営々として積み上げた城は崩れ落ちてしまうのだ
涙の川はひたすらに流れ行くが
そこに浮かぶハンケチを繋ぎ止めるべき葦は
いかにもか細い
笹舟に乗って仰向けになり
あの吸い込まれるような青空を眺めたのは
何時のことだったろう?
大波よ来い!と自虐的に叫んだのは
魂の叫びだったのかも知れない
夕暮れ時は寂しそう…
その赤い夕日におーいと叫ぶ元気は
もう今の僕にはない
住居におれば女になる
家に帰れば嫁になる
里に還れば娘になる
そうして
人気のない夜道の樹の下では
胸にすがってくる恋人になる
男は何で自分を磨くか。
基本は「人間は死ぬ」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。
もう、そのことに尽きるといってもいい。何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。
自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。
そうなってくると、自分の周りの者すべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。
逆に言えば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。
仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、それから衣食住すべてについていえることは、「男のみがき砂として役に立たないものはない・・・」ということです。
その人に、それらの一つ一つをみがき砂として生かそうという気持さえあればね。
池波正太郎
とにかく・・・僕は歩いてみたさ
蹴躓いても 転けそうになっても
公園のブランコやシーソーが
憐れむような顔して笑ってる
石のベンチに腰を下ろせば
その冷たさが慰めにも感じる
ふと浮かぶ剛の歌詞に
少年の自分が蘇る
しゃぼん玉なんて
一体いつからやってないんだ?
あの儚いしゃぼん玉は
あの頃の僕には夢の玉だったのか?
重い腰を上げて
僕はまた歩みを続ける
車の十分が
徒歩なら百分だぜ
心のケツに鞭を入れてみる
どうだ?まだ歩けるかい?
走れとは言わないよ
一歩、また一歩・・・
踏みしめてみろよ
そして汗を拭くとき
あの青空と白い雲と
なによりもお天道様に
ご挨拶をすることだな
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♪帰りたいけど帰れない
戻りたいけど戻れない
そう考えたら俺も
涙が出てきたよ
くじけないで なげかないで
うらまないで とばそうよ
あの時笑って作った
しゃぼん玉のように
淋淋と泣きながら
はじけてとんだけど
もっと俺は俺でありますように
いったい俺たちは
ノッペリとした都会の空に
いくつのしゃぼん玉を
打ち上げるのだろう?
見事なまでに善人面した悪人が
善人として生きている
悪人面に見えてしまう善人が
世間から弾き飛ばされて生きている
何なんだ・・・この世の中は
正義とは何だ
僕は勇んで闘うべきなのか
もう一人の自分に
僕は問いかける
母 二十歳
長女 成子・・・一歳一ヶ月で逝く
愛児夢限
バーミリオンに灼けた
地平の一本道を
ちっちゃい頭が
ひとりぼっち
とぼとぼと
消えていったよ
その人はまぶしい
僕は応対にひどく気を遣う
その人の得意な笑顔
一点の曇りもない爽やかな笑顔から
僕は逆に
宇宙の寂寞をよみとる
まるで星座のような
そうです
そしてまた
人知れぬ夜空の深淵に飛び交う
閃光のささやきを
僕は入学した
現実社会大学
本当の大学なら普通は四年で卒業だけど
僕は何年で卒業するんだろう
実は分かっているんだよ
ずっと留年ってことをね
何が卒業の証なんだろう
だれがそれを認めるんだろう
僕は人生を凝縮して生きている
昨日が今日で
今日が明日になる
でも・・・でも・・・
巡り巡った円環は
その出発点さえを消し去ってしまう
僕は果てしない球体を
また今日も
違う軌道で彷徨っている