同じ<人を導く>のに
<浄土参拝>に比重を置くか
<堕獄>に比重を置くか
その受け止め方は微妙に変わる
片方のみでは、まさしく片手落ちであり
要は、比重のかけ具合であると思う
僕的には・・・
浄土(6)地獄(4)である
悲しみは 多いほど
人を成長させ
優しさを育む
順風満帆の人は
どこか高慢で冷たい
本人の自覚しない部分で・・・
分かる人には
それが痛いほど分かる
正邪の闘いは、この肉体の中でも繰り広げられている
善玉と悪玉が壮絶な闘いをしている
一週間戦争、二週間戦争は
国家間で言えば、一年、二年の戦いか
前にも言ったが、僕は人間の自然治癒能力を信じている
熱は、その戦いの炎なんだ
解熱剤や注射は、安易な停戦協定に過ぎない
火種は消えることなく燻り続けるのだ
鼻汁や痰は、いわば(死体)だ
称えられるべき功績と言ってよい
ミクロの世界の十字軍が闘い続けている
そう、頼りない事極まりないけど
僕と言う主人のために
しんどい時に欲しいのは
「頑張れ」でもなく
「根性論」でもなく
「上から目線からの説教」でもなく
ただ静かに隣にいて
相槌を打ってくれることなんだって
そしてそれが出来る人が
どれほど貴重な尊い存在か
同じシーンの夢を見る
しかも明らかに続編だ、第二話、第三話みたいに
これには、次の世を見せられているとしか思えない
勿論のことだが・・・
登場人物は、まさにオールキャストだ
それぞれに接点のない者同士が同じ場所に登場する
それでこそ夢・・・なのだろうけど
僕の中のどこかで、それらすべてを肯定してしまう
そうか・・・「あの世で逢おう!」はあり得るんだな
不思議なくらい、ゆったりとしたリズムを感じる
やっと見つけた<この空間>みたいな・・・
ただ、気がかりもある
逢いたい人たちが、本当に遭いたい人たちがまだ登場していないんだ
最終回のおたのしみ!・・・か?
よく平凡は非凡だ、などといいますがそれはただの言葉の綾でしかなく、
平凡が平凡以上のものである筈もない。平凡でいいなどという手合いは
結局平凡にしか落ち着きはしない。
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人間の尊厳は何よりもその個性にこそあって、それを若い者の癖に人生を
端っから平凡でいいなどと口にするのは、自分自身だけでなく、人間全体
への冒瀆でしかない。
石原慎太郎
『渇しても盗泉の水を飲まず』(文選)
『鷹は飢えても穂を摘まず』
『斃れて後、已む』(礼記)
仕事上、それに近い心境に陥る時がある。
そこでグッと踏み止まるか否か!
同じ石に二度躓いては、阿保の中の阿保だ。
重責を担った人は
「辞表を書かなきゃ!」と思う所まで行って
そこで踏み止まって
リカバリーした人間でないとダメ!
井川意高
スピードや利便性が求められ過ぎて、
ゆったりとした時間が、まるで悪であるかのようだ。
幼少期を思い出す…
湧き水、囲炉裏、ランプ、五右衛門風呂…
それぞれに風情が感じられた。
特別に不便だとか、面倒くさいとか思わなかった。
逆に、空気は美味しかったし、太陽は暖かかった。
庭には、季節の花が咲き誇り、
裏山には、無花果や橙、野いちごやあけび、栗や椎の実
何でもありだった。畑では大方の野菜は採れたし
まさに自然の恵みを実感できた。
浜に行けば、サザエやアワビは普通の食材だったし、
魚は蛸糸や釘を曲げたような針で、そこらの貝を潰した餌で、
苦労なく釣れたし、子供たちは晩のおかず取りに一役かった。
今では、何もかもが営利と直結してしまっているが、
云わば、自給自足的な生き方が人間本来の有り様ではなかろうか。
自然な形で隣人同士が助け合い、励まし合って生きていた。
都会の息苦しさから抜け出して、あの「ポツンと一軒家」的な
生活が日常であったわけだ。
それにしても、人間の幸せとは何だ?
人は何を求めて、何を探して生きているんだ?