【高倉健の最敬礼】
今年の春、ある上場企業の経営者と私は近所の喫茶店に入った。彼は、しゃべり
始めた。「撮影現場にいたんです。僕は」・・・大学時代、RKB毎日で木村班
というのに入れられて、ADのバイトをやっていたんです。若い頃、勉強が面白く
なくて、大学をやめました。毎日、テレビ局で働きながら、将来はどうしようかと
悩んでいたわけです。番組のロケが始まった日のことです。「おまえ、高倉さんを
ホテルまで迎えに行け」と木村さんから命令されました。えっ、と思いました。
周りにお付の人がたくさんいるだろうし、無作法をして怒られたらどうしようと。
ホテルに行って、1階のエレベーター前で待っていたんです。そして、ドアが
開いたら、あの大スターの高倉健さんがたったひとりでエレベーターに乗って
いたんです。呆然としていたら、私のそばに来て、「高倉です。よろしくお願い
します」直角です。90度の角度ですよ。あわてて、私がごにょごにょ言いながら
、なんとなく頭を下げたら、高倉さんは不動の姿勢で下を向いていました。
びっくりしました。「こういう人が本当の大人だ」と感じました。マネージャー
も付き人もいなかった。たったひとりで博多にやってきて、ホテルもひとり。
ロケの間もひとりで立っていました。絶対に腰を下ろさない。何の文句も言わ
ない。オレたちバイトには気を配って、飲み物とか食べ物をくれる・・・。
衝撃でしたねえ。世の中には立派な大人がいるんだと思った。だって、はたちか
そこらの何もわからないガキに対して、最敬礼して、ちゃんと尊重してくれる。
そんな人いないです。バイト仲間とはあの頃、「大人になったら高倉健みたいに
ならたい」と話しました。いつの日か、立派な大人になるんだ、と。・・・でも
すぐにはなれなかったな。虚勢を張ってました。自分に自信がなかったから、
人に頭を下げることができなかった。でも、ある日、ふと高倉さんの最敬礼を
思い出して、「一からやり直そう」と決めたんです。それから彼は変わった。
友人の父親がやっていた会社に入った。年下の部下にこき使われながらも、
一切、文句を言わなかった。人に会った時には最敬礼することにした。年下の
アルバイトやパートの従業員を大切にした。態度のでかい取引先にカッときた
ことはあったけれど、高倉健の我慢を思い出して、じっと耐えた。そのうちに
働きが認められ、社長から「関係会社の経営を立て直してくれ」と命令される。
私が会ったのはちょうどその頃だった。初対面で彼は最敬礼した。最敬礼し、
なかなか頭を上げないから、「丁寧な人だな」と感じた。そして、10年経って
彼は会社を公開することができた。「高倉さんにお目にかかることは一生ない
でしょう。でもあのお辞儀を見ていなかったら、自分はこうはならなかった。
高倉さんのおかげだと思う。だから、作品はどんなものでも全部見ます。」

魅力的な人は、好奇心旺盛で感情豊かです。
私はそんな人たちを見てきて、歓びや悲しみ、あらゆる感情を
大いに揺り動かして生きていくといいのだな、と思っています。
起こってくることを味わい、知らないことに出合えたことを歓んで
丁寧に生きていきたいと、私も思うのです。
≪好奇心は人を魅力的にし、感情の振幅は人生を豊かにする
「知らないこと」に出合うことは、新しい世界への入り口に
いるということ。≫
好奇心がなくなったら、時代の変化を楽しむことができない。
未来に興味がない人は、はなしていてつまらない。
過去のことしか話をしないからだ。
「知らないことを知ること」は何も未来だけに限らない。
およそ役に立たない雑学であろうと、それを知ろうとする人の
気持ちは若い。
知りたい、学びたいという知的な欲求を捨てたとき、つまらない
人間になってしまう。
好奇心いっぱいに、どんなことも面白がる、知らないことは
興味津々身を乗り出して聞く、驚く、感動する人・・・。
何度も会いたくなる魅力的な人を目指したい。
・・・(五木寛之)・・・

本当に理解しているかどうか、そんなのを求めるのが虫がいいんだと思ったり
心の中で拠りどころにすることはできるし、そういう人がいるんだと思うことが
どんなに解放感かもしれない。これは思い込みも含めて、こういう人が一人でも
二人でもいたらいいなあ、そうすれば我慢もできるよっていうことがあるんじゃ
ないでしょうか。僕はそういう解決のしかたをしているような気がしますね。
それさえもまた、ある事柄を契機にして裂け目を生ずるみたいなこともあったり、
いろいろありますが、思い込みも含めて、この人はわかってくれるんだと、
そういう人がいたらつっかえ棒になるんじゃないでしょうか。
吉本隆明 「自由を生きるには」

方言と言えば、朝の連続テレビ小説の舞台である「松江」も<出雲弁>と称される
独特の方言がある。すべてが理解不能な鹿児島弁とまでは行かなくても、かなり
難解な言葉ではある。あの松本清張の推理小説にも、東北弁と間違われるくらいの
重要な素材として扱われるほどの言語だから、かなりの訛りなんだろう。
テレビの中では、さすがにすべて方言でとまではいかないようで、所々に
散りばめられていて、脚本家さんのご苦労がうかがえる。
「そげかね、そぎゃんなことがあったかね、わしゃ知らんかったけんね」
「何かあったら、わしにも知らせてごせや、待っちょうけんね」
これは僕の思い出しコトバである。こんなんだったかな?
アメリカ出身のタレントが山形で暮らして、現地顔負けの山形弁を喋るのは
有名な話である。そしてそのアメリカでさえ、地方によってまったく言葉が
通じないということもあるそうだから、言語学は奥深い。
今日のニュースに書かれていた・・・ドジャースの佐々木投手が、大ピンチで
登板した時、相手チームの観客に猛烈に野次られたそうだが、その言葉が理解
不能でちっとも堪えなかった・・・とか。
もうこうなったら僕の得意技?「目は口程に物を言う」で行くしかないかな?
前述の鹿児島の人が大真面目で言っていた・・・「私たちは二か国語を話す」
確かに!

朝ドラで話題の「小泉八雲」ですが、その曾孫であられる「小泉 凡」さんと
僕の父との絡みごとがあって、そのことを小紙に綴ったものがあったので、
探し出しアップしてみた。
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僕の実母が他界して、隠岐の島から松江に出た時、最初に住んだのが、
松江城の北側にあたる北堀町というところで、そのすぐ近くに
ヘルン旧居跡があった。当然ながらその頃の僕にハーンの意識など
これっぽっちもなかったのだが、厳かな千鳥城とその城を囲む優雅な堀
や武家屋敷の街並みには、子供ながらに感動したものだった。
実はそれも後々思い返せば・・・の話で、現実的には「間借り生活」の
窮屈さやいじめの記憶の方がはるかに大きい。
それにしても後々に知った話ではあるが、大橋で結ばれた城のある北と南の
差別的な社会事情には少々驚かされた。

