僕は何かに絶えず駆り立てられるように、その日その日を過ごしていた。
愛情の一番終わりの境界……その一線がハッキリと眼前に表出した。
涙は悲しみの表出てはなく、朝の草を飾る露のように自分の睫毛を濡らした。
それを機に、僕はピエロの仮面を脱ぎ捨てたような衝動を覚えたのだった。
脱出の日、片付けるものなど何一つ無いと言ってよかった。着の身着のまま
僕は脱出した。父の「お前は、脱出の名人だな……」という言葉が甦った。
スリルという言葉はあてはまらない、僕はこういう瞬間にいわば慣れていた。
18年間て唯一習得出来た特殊な【芸】だったのかも知れない。
半世紀以上を経た今日、僕はその芸を再現出させようとする自分に
驚きを隠せない。習癖は冬眠から覚めて甦るのだ。
あの時、「父よさらば、兄姉よさらば、可哀想な継母よさらば……」
と綴った言葉がまざまざと蘇ろうとしている。
結局のところ……その行き先は、実母の懐なのだが……
そしてまた、……ということは【X】にしかあり得ないのだが……。

京都の東南、坂の上のアパートには
これといった家具は一つもなくて
机代わりの電気コタツとダークブルーの寝袋がひとつ
階段の入り口ドアには
シルビーバルタンのポスターが一枚
朝に送り出し、夜に迎えてくれた
彼女の顔が別れたひとと重なって
僕はその唇にタッチするのだった
イメージは火花のようであり、とつぜんの風でひらく窓のようであり、
じわじわとにじみひろがるインクのようでもある。その群れを私は
流れるものは流れさせ、はびこるものははびこらせる。消えるか。のこるか。
いつか再生するか。苛酷な生の流れの少しはなれたところに体をおいてその
動静に眺め入る時間が貴重である。たいへん好きだ。
これらの群れは、いつも何か説明しにくい力である。たとえそれが、
たそがれの町角にのこる口笛の一節でも、新聞の三面記事の六行でも、
一帝国の興亡でも、私をとらえてはなさない力であることに変わりはない。
だから私はライオンの真似をすればライオンの爪や牙からのがれられると
思いこんでいた原始人に似ているのではないか。身ぶりをして憑きを
おとそうとして小説を書くのである。
【開高 健】
