今流行りの言葉で言えば、僕は信仰二世であったわけだが、その宗教から離れてもう半世紀以上が経過した。時の流れは速い。
既成、新興を含めて、世の中には数えきれないほどの宗教が存在している。信仰の自由という観点から言えば、僕がとやかく言える立場ではないが、否定部分はさておいて、肯定部分を書き記しておこうと思う。
ひとつは「薬毒論」漢方は対象外として、いわゆる西洋医学における薬だ。熱が出れば解熱剤、痛みがあれば鎮痛剤、こうした対象療法的考えが、受け入れられない。熱や痛みは、体内での正邪の闘いの現れである。昔、ミクロの決死隊という映画があったじゃないか。まさしく善玉が悪玉菌と闘っているのである。その闘いの火花が熱であり、咳であり、痰である。
もうひとつは、自然治癒能力。動物たちが、病に侵されたとき、ひたすら横たわってその快復の時を待つ。あれだ!少々時間は要するが、刹那的に、薬や注射で抑えこむよりは、はるかに合理的だ。一時的に抑えこまれただけの病原菌は、虎視眈々と次のチャンスを狙っている。
時間に追われる現代人の隙と言えばそれまでだが、数倍の時間は労しても、根本的に悪玉菌を断ち切ることの方が、はるかに近道というわけだ。
♪青い青い月の下で
きみに告げた愛の言葉
好きと言われ
好きと言った
あれは夢か遠い夢か
この老いた体でもなお、心は青春を彷徨っている。この風体、風貌で、貴女に逢わせる顔などないはずなのに。えっ?貴女も同感!って。想い出は、心の奥底に大切にしまっておくべきもの。そして時々、開き見るべきもの。
まさしく、「捨てる神あれば、拾う神あり」で、大袈裟な意味ではなくて、万事休す!の瞬間に、救世の主は現れる。そう言う人を称して「変化人(へんげにん)」と呼ぶと教えられた記憶がある。怠慢や悪事でもしない限り、正直、努力の人を、天は見捨てないというわけだ。
絶妙のタイミングで、これまた絶妙の人から連絡が入る。
これは本当に、天が遣わしめた人と確信できる。
烏滸がましくも、「天」という言葉を使ってしまったが、これは言葉を置き換えれば、亡き父であり亡き母であるに違いない。最も遠くて最も近い人、それが母。人生の大きな分岐点に必ず登場して、僕を正道に導いてくれた母。
僕がいずれ逝った時、魂の抱擁を交わすことができるだろうか?