アナウンサー
今思えばの話。小学生の時、僕の未来は見えていた。僕の通っていた小学校が
当時、視聴覚教育のモデル校となり、真新しい放送設備が完備された。そして
放送部なるものが出来て、僕は技術部門ではなく、アナウンサーに選抜された。
皆が給食を食べている時、「みなさん、こんにちは!今日は○○の話題をお届け
します。」とやっていた。
担任の先生の推薦であったそうだが、同学年の生徒が500人以上もいる
団塊世代、その中での選抜は今でも不思議に思っている。これまた学校の推薦
もあって、NHK松江放送局で色々と放送のイロハを教えてもらった。あれは
夏休みであったろうか、放送教育の全国大会なる催しがあって、全国から沢山
の先生方が来られた。僕は女の同級生と一緒にバスに乗り込み、出雲地方の
名所の案内役を任された。バスガイドさんが優しい眼差しをくれたことを、
今でも懐かしく思い出す。この経験を踏まえると、僕の将来はアナウンサー
だったのかもしれない。
中学に入って最初の国語の授業の時、先生からいきなり「ワタナベ、1ページ
目、読んでみろ!」と言われて、草野心平の詩を大きな声で読んだ。「瑞々しい
けやきの若葉を透いた光が・・・」先生は瞑目して聞いていた。しばらくして
「うん!<間>がいいな・・・その<間>がいい」と独り言のように呟いた。
僕はアナウンスの経験が生きているなと思った。誇らしくもあった。ニュース
を読む時と同様、目は二、三行先を読んでいるのだ。
もし、此処を人生の出発点と位置付けるほどの立志があったなら、僕は間違いな
くNHKかどこかのアナウンサーに成っていたであろう。
処女性
少々危険な領域の話なんだが、僕の青春時代を語る上では欠かせない領域なの
で、何某かの恥も覚悟の上で書き記しておこうと思う。まず自身の衝撃(感動)か
ら言えば、新婚初夜の明くる朝、ホテルベッドの真っ白いシーツの上の赤い一点を
見た時、ちょっと表現のしようのない感慨と言うか、いい意味でのショックを受け
た。
そんな僕が数年後、まったく異質な角度からの処女性を突き付けられることにな
った。それはこのカテゴリーのどこかで書いた、引っ越しを手伝った勤めていた会
社の同じ課の女の子から、「自分の誕生日に外で逢ってください」という申し出を
受けたことだ。彼女は五つも年下で、まだ成人前のいわば妹のような存在だったの
だが、持ち前の明るさと勝気な一面が、僕を少々混乱させた。そして<外で逢う>
という言葉に含まれたものに僕の心は少々どころか大いに悩まされたのだった。
ここで僕の心の中にある<処女性>がズンとのしかかってきたのだった。彼女は
もちろん僕の結婚も知っている。そして近い将来、彼女も結婚することだろう・・
という状況下での話である。僕が古い?男なのか、彼女が進んだ女性なのか?
青春の思い出に!という割り切りが理解できなかった。いやそれ以上に、大好きな
人に捧げたい!という女心が、受ける側の僕としては理解不能だったのだ。
後に話せば、周りの男どもは、ラッキー!とかうらやましい!とかいうシチュエ
ーションらしいが、僕にはとんでもない重圧としてのしかかってきたのだった。
結論から言えば、僕は彼女の誕生日祝いの食事をして、彼女からすれば屈辱的な
僕自身からすれば最後の砦を守り、その夜を終えた。具体的言葉にこそしなかった
が、「処女性を大事にしろよ」の思いを込めた結末のつもりだったのだ。もう一つ
加えれば、亡き母の天の声が、僕の精神と肉体を強烈に制御したのだった。時代の
差とは言え、母は18歳で父に嫁いだわけだが・・・。
半年後、彼女は退職した。同時進行とか時間のずれまでは聞かなかったが、彼と
の結婚のため。送別会となった会社の新年会で彼女とデュエットした。いかにも意
味深な「青春時代」。♪青春時代の真ん中は 胸にとげ刺すことばかり・・・
新人研修の一環として、僕たちは離島に派遣された。
たしか一週間くらいだったと思う。それぞれの新人に補佐的に先輩たちが
同行したのだが、僕担当の人は彼女だった。選別者がどれだけの密度を
察知していたかは知らないが、明らかに意図的な配属だった。
どこまでも広がる水平線・・・
二人で小舟に寝転んで見た満天の星空・・・
淡く、純粋なスタートラインだった。
♪・・・あなたがいつか
この街離れてしまうことを
やさしい腕の中で
聞きたくはなかった
まるで昨日と同じ海に波を残して
あなたをのせた船が
小さくなってゆく
継母に子供が生まれて、世の通例通り、僕は孤立無援状態に陥った。
外面的には真面な家庭に見えたであろうが、実際は崩壊家庭と言ってよかった。
そしてまた必然的に僕の養子縁組話が頻発するようになった。叔父であり、叔母
であり、父と同じ勤務先の中学校の体育の先生であり・・・。
しかし、父は頑強に拒否した。僕にその真意は分からなかったが、とにかく
父は拒否し続けたのだ。そんな混乱の渦の真っ只中で、僕のピエロ性は見事な
までに完成品へと突き進んで行った。そして数年後、自ら家を出るという結果
を迎えたのだ。よく<親戚のたらい回し>という話を聞くが、内容はともかく
として、それからの五年間で、僕はあちこちの親戚と関りを持たざるを得ない
結果となったのだ。そのほとんどが利用されただけのことだったのだが・・・。
大学へ行けず(行かず)、世間という<荒波大学>に揉まれて、僕は履歴書
には書けない五年間を過ごすことになったのだ。
兄
僕は六人兄弟の末っ子だったのだが、そのうち三人が幼くして亡くなっている
ので残されたのは兄(九つ違い)と姉(五つ違い)と末っ子の僕の三人だった。
母が亡くなった時、兄は中学生だったので、そのショックは想像を超えたものであ
っただろう。
親の死が子供の精神に多大な影響を及ぼすことは理解できるが、その核心の部分
は当事者でなければ分からない。その計り知れない負荷が兄の精神に覆いかぶさ
り、兄は大学生の時とその数年後にもう一回、大量の服薬による自殺未遂事件を起
こしている。
小学生だった僕は、兄の夜と昼が逆転したような日常に、ある種の怖れを抱いて
いた。本人にしてみれば、長い長いトンネルだったに違いない。大学病院での治療
も効果なく、半ば周囲から諦められたとき、兄は祖父母の住んでいた生まれ故郷で
ある隠岐の島に帰り、叔父がやっていた回漕店の仕事を手伝うことになった。今思
えば、その過酷とも言える肉体労働が、精神に大きな好影響をもたらしたようだ。
数年で兄は快癒し、やがて母方の親戚の世話で神奈川県へ移住した。
今思えばの話だが、僕にも兄と類似した体験がある。高校の時の登校拒否であっ
たり、進学校でありながら大学受験を拒否し、父の入信した宗教であったとはい
え、そこの専従職員(宣教師)になったりと、親、親戚からすれば、「またこの子
もか・・・」」と思われたに違いない。
幸い、死を選ぶことはなかったが、還暦の同窓会の時、当時の彼女から「オウム
の事件の時、絶対ワタナベ君がいると思った」と言われたのには驚いた。当時の
僕はそれほどまでに精神的異常を露呈していたのだろう。学年でトップ50のクラ
スに在籍していながら、受験しなかったのだから・・・。クラスメート八人が東大
に受かったと聞いたのは、何年か経ってからのことだった。僕は広島の地で、骨皮
筋衛門?でオロオロと歩きまわっていたのだ。
夜逃げ
YouCubeで「夜逃げ屋本舗」という映画を観た。中村雅俊と大竹しのぶが出ていた。
「夜逃げ」と聞いて思い出すことがある。
あれは・・・二十歳前のころ、宣教師の卵として、広島市の原爆ドームの近くに
アパート一間をあてがわれ、開拓布教なるものに投げ出された。まさに一文無し、
水道の水だけが命の綱?だった。それでなくても細身の体が、どんどんやせ細って
行った。一月ほど経ったある日、ある家族との出会いがあり、初の成功事例に辿り
つけたかという感じだった。
しかし急転直下、何回か目の訪問の日、奥さんから想像もしないことを頼まれた。
「わたなべ君、クルマの運転できるでしょ?今晩頼める?」何のことか理解できず
にいると、どんどんと部屋の片づけが始まり、引っ越し???そういうことかと
理解して、荷造りを手伝うことになってしまった。しかしなんとまた急に?と
怪訝な顔をした僕に、奥さんから、ご主人の事業が失敗して夜逃げをしなければな
らなくなったと告げられた。まだ幼稚園くらいの男の子もいた。
まさに文字通り「夜逃げ」・・・暗くなるのを待って、必要最小限の荷物を載せ
て、言われるがまま車を走らせた。10キロくらい走っただろうか、目的の民家に
到着して、その晩は電気こたつに足を突っ込んで四人で雑魚寝した。
事が事だけに、僕は何も言えなかった。暗闇の中で天井を見つめる奥さんの瞳に
光るものがあった・・・。
そこに建物としての「家」は存在したが、肝腎の「家庭」がなかった。
母親の存在が家族から欠落するということは、この世で太陽が失くなることに等しい。
つまり、お母さんは家の太陽というわけだ。
継母には可哀想な言葉かもしれないが、人工太陽では心の闇は照らせないし、心
中の氷は、ちょっとやそっとでは溶かすことはできない。まだ小さかった僕は、思
春期の兄や姉ほどの抵抗感は無かったが、それでも義理の弟が生まれてからと言う
ものは、兄姉に倍して言い知れぬ暗闇を押し付けられた。
山陰の松江から京都に脱出?してきたのが二十歳の時だった。もちろん組織の追
っ手はいたのだが、僕如き下っ端人間は、それほどの執拗な追跡は無かった。叔母
の家での生活が落ち着いた頃、僕はあるコンサートに出かけた。西岡たかしと五つ
の赤い風船。
リーダーの軽妙な喋りも楽しかったが、僕は紅一点の<藤原秀子>の歌声に魅了さ
れた。なんとも奥深いと言うか、哀愁が漂う歌声と言うか・・・。感動した。
♪遠い世界に旅に出ようか
それとも赤い風船に乗って
雲の上を歩いてみようか
太陽の光で虹を作った
お空の風をもらって帰って
暗い霧を吹き飛ばしたい
僕より二つ年上の彼女も10年前に亡くなっている。
あれからもう半世紀以上、時が経過している。不思議なもので、つい口ずさむ
歌がこれだったりする。
様々な自己紹介欄に書いている通り、
「人生はいつも青春 いつも心のさすらい」
傍から老人視される男の心の片隅で、青春の名残の灯が
チロチロと燃えている。
あの頃の日記帳になんとも稚拙な詩がある。
♪あの雲の向こう
あるという泉
忘れ得ぬひとに
巡り合いたい
どうぞ忘れないでと
あなたは言った
忘れるもんか
君だけなのに
あああ、僕だけの君なのに
※この詩には稚拙な曲が付いている。
後に彼女に聞かせたら「西郷輝彦の唄に似てる」と言われた。
たしかに・・・。これまた模作だけのことはある。
英会話教室の周辺がざわついていた。あのフォーククルセダーズの「北山修」が来ているということだった。僕たちの教室は七人授業だったが、彼は個人授業のようだった。後から思えば、府立医大は教室に近かったからだろう。ステッファニー先生の旦那はロックバンドで、しかもアンダーグラウンド的だったから、先生もさほど興味はないという雰囲気だった。
その北山氏が、後々スターダムにのしあがる存在になるとは、当時の誰が想像し得ただろう。やはり北山修と言えば、あの作詞能力だな。僕が一番好きなのは、「白い色は恋人の色」…
♪夕やけの赤い色は想い出の色
涙でゆれていた想い出の色
ふるさとのあの人の
あの人のうるんでいた瞳にうつる
夕やけの赤い色は 想い出の色
想い出の色 想い出の色
二十歳の夏の日曜日、僕は彼女から映画に誘われた。
その映画は、ダスティン ホフマン主演の「卒業」だった。
映画館へ行くのは超久しぶりで、子供みたいにわくわくしたのを覚えている。
題名は聞かされていたわけではなくて、映画館に入るときにポスターで知った。
内容は、二人にとっても刺激的なものだったが、僕はS&Gの音楽に魅了され
た。(サウンド オブ サイレンス)(スカロボローフェア)(ミセス ロビンソ
ン)後々まで、これらの曲を聴けば、映画のシーンが蘇るというわけだ。
見終わって、夕暮れ時の湖畔沿いの道を、二人手を繋いでゆっくりと歩いた。
交わす言葉は何もない。指に伝わる感触で、映画の一コマ一コマを思い出している
のが分かった。そしてそれに伴う心の語り掛けさえも・・・。
「結婚」・・・五つ年上の彼女には重いテーマが現実問題としてのしかかって
いたのだ。映画のストーリーほどドラマチックなものでなくても、超鈍感男の僕に
にでも、それぐらいの心の揺れは感じ取ることができた。
僕たち二人は同じ教会の専従職員だった。僕は布教師の卵、彼女は事務職員だっ
た。もちろん先輩の男性もたくさん居たし、彼等からすれば、僕はまだコドモ中の
コドモ。彼等こそが彼女へのアプローチをかけていたというわけだが、なぜか彼女
は拒否反応、対象者は僕というわけだ。
秋を迎えて、久しぶりに教会で会った父が言った。「いい人じゃないか、結婚し
ろ!」「えっ!」どこでどういう接点が生まれていたのか?またしてもこの鈍感男
には理解不能だった。三歳で母親と死別し、兄姉が六人も居ながら、三人が幼くし
て他界。残った兄姉は歳が離れていたし、ひとつ屋根の下で暮らした経験はほとん
どなく、ぽつんと一人っ子みたいに育った母性愛、兄弟愛欠乏症の僕には、彼女の
ようなグイグイと引っ張ってくれるひとが最適と、父は考えていたようだ。どうや
ら彼女は、僕より先に父に僕との結婚を申し込んだようだ。
徒手空拳、何の地位も金もない僕に、何ができると言うのだ?人生の荒波の序曲
はここから始まったと言っても過言ではない。