継母に子供が生まれて、世の通例通り、僕は孤立無援状態に陥った。
外面的には真面な家庭に見えたであろうが、実際は崩壊家庭と言ってよかった。
そしてまた必然的に僕の養子縁組話が頻発するようになった。叔父であり、叔母
であり、父と同じ勤務先の中学校の体育の先生であり・・・。
しかし、父は頑強に拒否した。僕にその真意は分からなかったが、とにかく
父は拒否し続けたのだ。そんな混乱の渦の真っ只中で、僕のピエロ性は見事な
までに完成品へと突き進んで行った。そして数年後、自ら家を出るという結果
を迎えたのだ。よく<親戚のたらい回し>という話を聞くが、内容はともかく
として、それからの五年間で、僕はあちこちの親戚と関りを持たざるを得ない
結果となったのだ。そのほとんどが利用されただけのことだったのだが・・・。
大学へ行けず(行かず)、世間という<荒波大学>に揉まれて、僕は履歴書
には書けない五年間を過ごすことになったのだ。
兄
僕は六人兄弟の末っ子だったのだが、そのうち三人が幼くして亡くなっている
ので残されたのは兄(九つ違い)と姉(五つ違い)と末っ子の僕の三人だった。
母が亡くなった時、兄は中学生だったので、そのショックは想像を超えたものであ
っただろう。
親の死が子供の精神に多大な影響を及ぼすことは理解できるが、その核心の部分
は当事者でなければ分からない。その計り知れない負荷が兄の精神に覆いかぶさ
り、兄は大学生の時とその数年後にもう一回、大量の服薬による自殺未遂事件を起
こしている。
小学生だった僕は、兄の夜と昼が逆転したような日常に、ある種の怖れを抱いて
いた。本人にしてみれば、長い長いトンネルだったに違いない。大学病院での治療
も効果なく、半ば周囲から諦められたとき、兄は祖父母の住んでいた生まれ故郷で
ある隠岐の島に帰り、叔父がやっていた回漕店の仕事を手伝うことになった。今思
えば、その過酷とも言える肉体労働が、精神に大きな好影響をもたらしたようだ。
数年で兄は快癒し、やがて母方の親戚の世話で神奈川県へ移住した。
今思えばの話だが、僕にも兄と類似した体験がある。高校の時の登校拒否であっ
たり、進学校でありながら大学受験を拒否し、父の入信した宗教であったとはい
え、そこの専従職員(宣教師)になったりと、親、親戚からすれば、「またこの子
もか・・・」」と思われたに違いない。
幸い、死を選ぶことはなかったが、還暦の同窓会の時、当時の彼女から「オウム
の事件の時、絶対ワタナベ君がいると思った」と言われたのには驚いた。当時の
僕はそれほどまでに精神的異常を露呈していたのだろう。学年でトップ50のクラ
スに在籍していながら、受験しなかったのだから・・・。クラスメート八人が東大
に受かったと聞いたのは、何年か経ってからのことだった。僕は広島の地で、骨皮
筋衛門?でオロオロと歩きまわっていたのだ。
夜逃げ
YouCubeで「夜逃げ屋本舗」という映画を観た。中村雅俊と大竹しのぶが出ていた。
「夜逃げ」と聞いて思い出すことがある。
あれは・・・二十歳前のころ、宣教師の卵として、広島市の原爆ドームの近くに
アパート一間をあてがわれ、開拓布教なるものに投げ出された。まさに一文無し、
水道の水だけが命の綱?だった。それでなくても細身の体が、どんどんやせ細って
行った。一月ほど経ったある日、ある家族との出会いがあり、初の成功事例に辿り
つけたかという感じだった。
しかし急転直下、何回か目の訪問の日、奥さんから想像もしないことを頼まれた。
「わたなべ君、クルマの運転できるでしょ?今晩頼める?」何のことか理解できず
にいると、どんどんと部屋の片づけが始まり、引っ越し???そういうことかと
理解して、荷造りを手伝うことになってしまった。しかしなんとまた急に?と
怪訝な顔をした僕に、奥さんから、ご主人の事業が失敗して夜逃げをしなければな
らなくなったと告げられた。まだ幼稚園くらいの男の子もいた。
まさに文字通り「夜逃げ」・・・暗くなるのを待って、必要最小限の荷物を載せ
て、言われるがまま車を走らせた。10キロくらい走っただろうか、目的の民家に
到着して、その晩は電気こたつに足を突っ込んで四人で雑魚寝した。
事が事だけに、僕は何も言えなかった。暗闇の中で天井を見つめる奥さんの瞳に
光るものがあった・・・。
そこに建物としての「家」は存在したが、肝腎の「家庭」がなかった。
母親の存在が家族から欠落するということは、この世で太陽が失くなることに等しい。
つまり、お母さんは家の太陽というわけだ。
継母には可哀想な言葉かもしれないが、人工太陽では心の闇は照らせないし、心
中の氷は、ちょっとやそっとでは溶かすことはできない。まだ小さかった僕は、思
春期の兄や姉ほどの抵抗感は無かったが、それでも義理の弟が生まれてからと言う
ものは、兄姉に倍して言い知れぬ暗闇を押し付けられた。
山陰の松江から京都に脱出?してきたのが二十歳の時だった。もちろん組織の追
っ手はいたのだが、僕如き下っ端人間は、それほどの執拗な追跡は無かった。叔母
の家での生活が落ち着いた頃、僕はあるコンサートに出かけた。西岡たかしと五つ
の赤い風船。
リーダーの軽妙な喋りも楽しかったが、僕は紅一点の<藤原秀子>の歌声に魅了さ
れた。なんとも奥深いと言うか、哀愁が漂う歌声と言うか・・・。感動した。
♪遠い世界に旅に出ようか
それとも赤い風船に乗って
雲の上を歩いてみようか
太陽の光で虹を作った
お空の風をもらって帰って
暗い霧を吹き飛ばしたい
僕より二つ年上の彼女も10年前に亡くなっている。
あれからもう半世紀以上、時が経過している。不思議なもので、つい口ずさむ
歌がこれだったりする。
様々な自己紹介欄に書いている通り、
「人生はいつも青春 いつも心のさすらい」
傍から老人視される男の心の片隅で、青春の名残の灯が
チロチロと燃えている。
あの頃の日記帳になんとも稚拙な詩がある。
♪あの雲の向こう
あるという泉
忘れ得ぬひとに
巡り合いたい
どうぞ忘れないでと
あなたは言った
忘れるもんか
君だけなのに
あああ、僕だけの君なのに
※この詩には稚拙な曲が付いている。
後に彼女に聞かせたら「西郷輝彦の唄に似てる」と言われた。
たしかに・・・。これまた模作だけのことはある。
英会話教室の周辺がざわついていた。あのフォーククルセダーズの「北山修」が来ているということだった。僕たちの教室は七人授業だったが、彼は個人授業のようだった。後から思えば、府立医大は教室に近かったからだろう。ステッファニー先生の旦那はロックバンドで、しかもアンダーグラウンド的だったから、先生もさほど興味はないという雰囲気だった。
その北山氏が、後々スターダムにのしあがる存在になるとは、当時の誰が想像し得ただろう。やはり北山修と言えば、あの作詞能力だな。僕が一番好きなのは、「白い色は恋人の色」…
♪夕やけの赤い色は想い出の色
涙でゆれていた想い出の色
ふるさとのあの人の
あの人のうるんでいた瞳にうつる
夕やけの赤い色は 想い出の色
想い出の色 想い出の色
二十歳の夏の日曜日、僕は彼女から映画に誘われた。
その映画は、ダスティン ホフマン主演の「卒業」だった。
映画館へ行くのは超久しぶりで、子供みたいにわくわくしたのを覚えている。
題名は聞かされていたわけではなくて、映画館に入るときにポスターで知った。
内容は、二人にとっても刺激的なものだったが、僕はS&Gの音楽に魅了され
た。(サウンド オブ サイレンス)(スカロボローフェア)(ミセス ロビンソ
ン)後々まで、これらの曲を聴けば、映画のシーンが蘇るというわけだ。
見終わって、夕暮れ時の湖畔沿いの道を、二人手を繋いでゆっくりと歩いた。
交わす言葉は何もない。指に伝わる感触で、映画の一コマ一コマを思い出している
のが分かった。そしてそれに伴う心の語り掛けさえも・・・。
「結婚」・・・五つ年上の彼女には重いテーマが現実問題としてのしかかって
いたのだ。映画のストーリーほどドラマチックなものでなくても、超鈍感男の僕に
にでも、それぐらいの心の揺れは感じ取ることができた。
僕たち二人は同じ教会の専従職員だった。僕は布教師の卵、彼女は事務職員だっ
た。もちろん先輩の男性もたくさん居たし、彼等からすれば、僕はまだコドモ中の
コドモ。彼等こそが彼女へのアプローチをかけていたというわけだが、なぜか彼女
は拒否反応、対象者は僕というわけだ。
秋を迎えて、久しぶりに教会で会った父が言った。「いい人じゃないか、結婚し
ろ!」「えっ!」どこでどういう接点が生まれていたのか?またしてもこの鈍感男
には理解不能だった。三歳で母親と死別し、兄姉が六人も居ながら、三人が幼くし
て他界。残った兄姉は歳が離れていたし、ひとつ屋根の下で暮らした経験はほとん
どなく、ぽつんと一人っ子みたいに育った母性愛、兄弟愛欠乏症の僕には、彼女の
ようなグイグイと引っ張ってくれるひとが最適と、父は考えていたようだ。どうや
ら彼女は、僕より先に父に僕との結婚を申し込んだようだ。
徒手空拳、何の地位も金もない僕に、何ができると言うのだ?人生の荒波の序曲
はここから始まったと言っても過言ではない。
18歳の時、僕は市の公会堂で、聴衆2000人の中、生バンドをバックに歌った。
曲は坂本九の「明日があるさ」場内は照明がゆるかったので、さほど緊張はしなか
った。のど自慢大会なら<鐘二つ>と言った出来だっただろうか。本当は生来の恥
ずかしがり屋で、赤面症という臆病者だったが、放送部でのアナウンスや合唱団で
の経験が、徐々に僕の心臓を大きくしてくれていた。
自分から進んでやったわけでもないから、これはひとえに、そういう場を経験さ
せて下さった担任の田辺先生や福原先生のおかげだ。そしてもう一人、成人後の僕
を大改造してくれたステッファニー先生。
恩師は時代時代に顕れる。
♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もう来る頃もう来る頃
今日も待ちぼうけ
明日がある明日がある
明日があるさ
退職願を出して三カ月間の軟禁?状態に置かれていた僕に、更なる追い打ちが襲い掛かってきた。三階の事務所にいる僕に一階の事務員から内線電話がかかった。「渡部さん、来客です」???不審に思いながら降りて行くと、見るからにそれらしき人物が椅子に腰かけて脚を組んでいた。
「こういうもんやけど・・・」と言いながら名刺を差し出してきた。金文字の名刺だった。「もうわかってるやろ・・・そこの喫茶店で待ってるわ」と言い残して出て行った。事務員さんが「大丈夫?」と言って心配顔を向けてきた。
三日前に自宅にかかってきた電話で心の準備は出来ていた。僕のこの会社への紹介者であり、住宅購入時の恩人である人の会社が倒産の危機に瀕していたのだ。最後のあがきで借金をするときの連帯保証人の三番目に僕の名前と実印が押されていたのだ。恩人は裏切れない・・・。上位二者はすでに行方をくらましていた。そのうちの一人から電話が入っていたのだ。「自分らだけ逃れやがって!」と思ったが、足掻いても仕方がない。
指定された喫茶店へ行くと、借用証書をテーブルに差し出して、額の所をトントンと指で突いた。僕は間髪を入れず「明日、此処へ来てください。用意しておきます」と言った。相手は拍子抜けしたようにへっ!という顔をした。そして「そ、そうか、ほな明日な」と言って出て行った。
僕は社に帰り、社長に言った。「社長、退職金を明日いただけませんか」社長は「そ、そうか・・・ほな明日用意しとくわ」と罰悪そうにつぶやいた。何のことは無い僕をこの会社に斡旋したその人は、社長の愛人だったのだ。最後のあがきの金づくりのためのサラ金周りの当事者が僕だったことも知っているはずで、ノーとは言えないことは分かっていた。
翌日、喫茶店で帯封の札束の入った封筒を差し出すと、相手はその数を確認して、「おまえ、良い奴っちゃな」と言って札を一枚抜いて僕に差し出した。「ほな!」と言って店を出て行った。瞬時に「借用書を返せ!」と思ったが、もう来ないだろうと言う確信めいたものがあったので、後を追うことはしなかった。
社に戻ると、事務員さんが心配そうな顔をしていた。僕は無言で片手を挙げて「大丈夫!」という合図をした。表向きはそうだったが、内心はやや暗雲が立ち込めていた。ギリギリの状態の時、僕は恩人社長とサラ金巡りをして金策をしていたのだ。しかも僕名義で。休む間もなく、三社のサラ金会社を廻った。日がずれればずれるだけ利息がかさむ。こんな経験は二度としたくないと心に誓った。
叔父の誘いに乗って、僕は遥か隠岐の島まで来ていた。港湾建設会社を退職して、独立した叔父の手伝いをたのまれたのである。事務員兼、現場監督兼、ダンプ運転手兼、小型船舶操縦兼、潜水夫の命綱兼、・・・何でもやらされた。
作業員のほとんどが鹿児島からの季節労務者だった。一日の終わりには飯場で彼らと一緒に飲み食いした。子供のような存在の僕は、みんなに「あきちゃん」と言って可愛がられた。酒には強かったが、彼らの飲む度の強い焼酎には参った。飯場を抜けだして波止場に寝っ転がり、星空を見るのが習慣だった。
そんなある夜、永田さんが僕に話しかけてきた。他の人たちとはちょっと違う文士のたたずまいの人だった。たぶん他の仲間とは異質な存在だったのだろう。訊けば、故郷では村史の編纂に携わるような立場と聞かされた。
この出会いから数十年、僕たちは文通をした。筆まめな人だった。日本の何処の地へ派遣されても、手紙をくださった。僕には及びもつかない文人だった。父とイメージが重なった。
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