今日は、我が母の祥月命日
もう七十数年の時が流れた。
享年33歳だから、年齢的には、はるかに逆転しているわけだが、どういうわけか、僕の心の中では、そのイメージの逆転は起こらない。起こりようがない。
いくつになっても母は母。いつも天空から優しく見つめ続けてくれている。
念ずれば、その想いは霊界を駆け巡り、辿り辿って必ずやその目的の霊に到達すると聞く。
僕の想念が辿り着いた時、その想いが人体と化し、母の胸に飛び込むことが出来るだろうか。
この世の孤独は、特別耐えがたきものとは思わない。少なくともこの僕は。
僕の想念はあの世とこの世を往来する。光年の単位を押し付けられても、自由に飛翔する。
教えられた通りとすれば、母は光と花園の中にはいない。しかし、この僕が行って手を握れば、その場は一転するはずだ。
常盆常彼岸…その弔いが母をひとときの寂光に導く。

優柔不断のダメ男の僕でも
意外なほどの決断、決行もあったのです。
ギリギリまでは動かない、いや動けなかったが正しいか。
尻に火が付かないと動かないということかも知れない。
それでも結果、僕は動いた、決断した、決行した。
当然ながら、跳ね返りは激しいものがある。
それは覚悟の上。
それを快感とまでは言わないが、受けて立つ自分が居る。
これまた逆を言えば・・・
他人は、自分が思うほどこっちのことなんか思ってはいないのだ。
自惚れは大きな落とし穴が待っている。
詐欺師たちの大海原で、仰向けに浮かんで脱力する。
その一見無防備と思える裸身にクラゲたちの針は刺さらない。

若い頃もそうだった。
気持は毎日でも逢いたいのに、現実は逢えない。
歌の文句じゃないけれど・・・
その逢えない時間が、愛を育てる。
♪目を瞑れば 君がいる・・・
現代に置き換えてみれば、
毎日、毎時の交信よりも
間を空けた方が、言葉に重みが、深さが生まれる。
人の本質は顔に現れる・・・これは誤魔化しようがない。
人の本性は声に現れる・・・これも隠しようがない。
意識して磨いてきたわけでもないけれど
眼力、洞察力、読唇述はインスタントではできない。
そのまた逆を思えば・・・
繕う自分は何の意味も持たない。
居直りとは違う・・・素顔の、素心の僕が居る。
