忘れしゃんすな
テレビに映し出される港風景、何気なく観てしまうが、僕にはそれなりの感傷も
ある。僕が幼いころ、生まれ故郷の隠岐の島は、まだまだ岸壁施設が整ってはおら
ず、大型船は湾に入ってくると、その真ん中あたりで停まり、陸から迎えの手漕ぎ
船が行って、客と荷物を降ろすという状態だった。父のすぐ下の弟の叔父さんが、
その回漕店を営んでいて、僕の兄も一時期お世話になった。
昼間や海が凪いでいる時は、ちょっとした風物詩的趣があったのだが、深夜や時
化の時はかなりの難行であったようだ。稀に人や荷物が海中に落ちてしまったとい
う話も聞いたことがある。夜中着の場合は、湾に入ってきたところでボーー!と
汽笛が鳴って、仮寝の布団から抜け出して作業に取り掛かると聞かされた。
そうした時代の十数年後、僕自身がそれに関連した波止場づくりの仕事で帰郷
するとは思いもしなかった。これも縁というものだろう。超大型船ですら接岸できる
ほどに整った港町に、もう昔の面影はない。船が離れるとき、隠岐民謡の「しげさ
節」が流れ、別れのテープが舞う光景は、昔では考えられないことだ。
♪忘れしゃんすな 西郷の港 港の帆影が 主さん恋しいと 泣いている・・・

教 師
僕には運命づけられたものがあった。それは「教師」。父も、母側の叔父二人も叔母も従兄も・・・ほとんどが先生一家だった。我が家では、その筆頭だった兄が心の病で脱落してしまったので、当然のように僕にその順番が回ってきた。
中学校入学の時、同じ学校に父が赴任してきて、僕は何とも息苦しい三年間を過ごすことになってしまった。高校入試の願書提出の時、僕が「工業高校、建築科」を志望したら、担任が「とんでもない!君は松江南高校へ行って、教育大学に進まなければ!」と言って拒否された。先生方や同級生たちの目があるから、優等生を演じる自分がいて、中学の三年間は精神的監獄みたいなものだった。
高校入試はかなりの高得点で、県下でも何十番とかで合格した。知る立場にあった父がそう教えてくれた。
しかし、人生の流転とはまさにこのことで、それからの七年間、怒涛の荒波が待ち構えていた。

アナウンサー
今思えばの話。小学生の時、僕の未来は見えていた。僕の通っていた小学校が
当時、視聴覚教育のモデル校となり、真新しい放送設備が完備された。そして
放送部なるものが出来て、僕は技術部門ではなく、アナウンサーに選抜された。
皆が給食を食べている時、「みなさん、こんにちは!今日は○○の話題をお届け
します。」とやっていた。
担任の先生の推薦であったそうだが、同学年の生徒が500人以上もいる
団塊世代、その中での選抜は今でも不思議に思っている。これまた学校の推薦
もあって、NHK松江放送局で色々と放送のイロハを教えてもらった。あれは
夏休みであったろうか、放送教育の全国大会なる催しがあって、全国から沢山
の先生方が来られた。僕は女の同級生と一緒にバスに乗り込み、出雲地方の
名所の案内役を任された。バスガイドさんが優しい眼差しをくれたことを、
今でも懐かしく思い出す。この経験を踏まえると、僕の将来はアナウンサー
だったのかもしれない。
中学に入って最初の国語の授業の時、先生からいきなり「ワタナベ、1ページ
目、読んでみろ!」と言われて、草野心平の詩を大きな声で読んだ。「瑞々しい
けやきの若葉を透いた光が・・・」先生は瞑目して聞いていた。しばらくして
「うん!<間>がいいな・・・その<間>がいい」と独り言のように呟いた。
僕はアナウンスの経験が生きているなと思った。誇らしくもあった。ニュース
を読む時と同様、目は二、三行先を読んでいるのだ。
もし、此処を人生の出発点と位置付けるほどの立志があったなら、僕は間違いな
くNHKかどこかのアナウンサーに成っていたであろう。

歌と同じシチュエーションが現実の僕にも現出するわけで・・・。
作詞者も同じ経験の持ち主なのかと、感慨に浸る僕がいる。
どこまでが許されて、どこからが危険で罪なのか・・・。
薄々解かっているから、きちんとブレーキは踏むし、バックもする。
数十年も前のことが、昨日のことのように思い出される。
それでもいつか・・・・・・・・・・・・・・・
♪何気ない毎日が 風のように過ぎてゆく
この街で君と出会い この街で君と過ごす
この街で君と別れたことも
僕はきっと忘れるだろう
それでもいつかどこかの街で会ったなら
肩を叩いて微笑んでおくれ
さりげないやさしさが 僕の胸をしめつけた
この街で僕を愛し この街で僕を憎み
この街で夢を壊したことも
君はきっと忘れるだろう
それでもいつかどこかの街で会ったなら
肩を叩いて微笑みあおう
それでもいつかどこかの街で会ったなら
肩を叩いて微笑み合おう
いつか街で会ったなら 中村雅俊
