臨 死
僕は七回死にかけた。
一回目は自覚はない。父から聞かされた。乳飲み子のころか・・・何も飲まない、
何も食べない・・・上の三人の子と同様、父は覚悟したという。しかし、見舞客が持ってきた果物を武者ぶりつくように食べて生き返ったという。
二回目は四歳の時、釣り遊びで海に落ちた。海中で幼子ながらに死を覚悟したとき、岩場から差し出された友達の釣り竿に掴まって、僕は助かった。
三回目、ボーイスカウトの訓育会で僕たちはゲームをしていた。鬼役が目隠しをして一定の円の中で仲間を捕まえ、その名前を当てるというものだった。僕が捕まり持ち上げられて地面に落とされた。後頭部をしこたま打ち付け、気を失った。三日三晩昏睡状態だった。奇跡的に意識が戻ったが、それから十数年は過度の運動や労働をすると、後頭部に錘がぶら下がっているような痛みに悩まされた。
四回目、研修先の岡山の田舎町で、僕は先輩の運転するバイクの後部座席に乗っていた。なにせ田舎の砂利道のこと、激しくバウンドした時、僕は後方へ放り出されてまたしても意識を失った。これまた三日三晩、僕は眠る続けたらしい。その時僕の世話をしてくれた女性が、お産のため里帰りをしていた母屋の娘さんだった。付きっきりの看病をしてくれて、僕の意識が回復してから、旦那の住む横須賀へ帰って行った。
五回目、交通事故に遭った。葬式の執行長を任されたお寺へ向かう途中だった。10Mも離れていない信号を無視した形となって、僕の車は激しいサイドインパクトに見舞われ、ガードレールを突き破って、かろうじて止まった。僕は助手席まで飛ばされていた。相手の車の運転手の「死ぬ気か!」という罵声が耳に残った。運ばれた救急病院に警察官がやってきた。「ワタナベさんは?」僕が手を挙げると彼は驚いたように呟いた。「あの状況からして、もう亡くなられたかと・・・」と。
僕は帰宅後、三日三晩まったく身動きできなかった。
六回目、またしても交通事故に遭った。信号は切り替わりの時、三秒くらいの全方向赤の時間がある。それを青と認識するか赤と認識するかで事故は起こる。僕は又してもサイドインパクトを被った。この時は娘が後部座席に乗っていた。青信号と認識した相手運転手の所為で、強烈に飛ばされ、電柱にぶつかってやっと止まった。娘は足を骨折、入院となった。この事故の後、どうしても腑に落ちないことがあった。法律解釈では、僕は同乗者である娘への加害者ということで、免停三か月という結果が待っていた。これには今もって憤懣やるかたない。
七回目、仕事がらみの旅行続きで、九州一周旅行の後、アメリカへのツアーが待っていた。健康診断が必要とのことで、僕はかかりつけの医院で検査を受けた。その数日後、連絡が入り「すぐに来なさい!」とのこと。行ってみると「肝臓がらみの血液の数値が異常だ!」の答え。どうも鹿児島で食べた生牡蠣が原因らしかった。「予約してあるから、すぐに入院してください!」これには参った。社長兼事務員兼社員兼のわが身には死の宣告に等しい。僕は食い下がった。入院と同じ条件を自宅で満たしますから、入院は勘弁してください!」先生は「死にますよ!」と言ったが、しばらくして「私の言うことを全部守れるのなら良いでしょう」と。それからの三か月、点滴治療が続いた。仕事は電話、fax、仲間の援助のおかげで何とか乗り越えることができた。

今、信仰二世、三世の問題で世間が揺れている。そこに起因して一国の総理が殺されたのだから、単純な問題ではないことは明らかだ。僕は団体は全く違うが、主体側と信者側の両方を体験しているので、一概に結論めいたことは言えない。団体そのものの内部でも法廷闘争は頻発していた。僕はその混乱の中で際どく脱走したのだ。一般社会に戻った後しばらく、僕はマインドコントロールの恐ろしさを嫌というほど味わった。もっとも顕著だったのが、二年後れの大学受験をした時だった。ごく単純な小論文だったのに、それが書けなかったのだ。頭に浮かび上がってくるのは、教義的な文章ばかりで、全く世間常識的な文言が浮かばなかったのだ。その屈辱的な挫折に始まり、本当の意味で普通人に戻れたのは、更に三、四年後だった。心の住む世界が対極にあるわけだから無理もない。だから、今話題の教団もちょっとやそっとでは、はい、終わり!とは行かないはずだ。端から見ればの洗脳も、当事者にすれば超真面目な信奉であって、少々のことで揺れ動いたのでは、全うな信者とは見なされないわけで。

子供たちの安心、安定の生活は、普通にとらえれば結構極まりない話なんだろう
けど「非情」とも捉えられかねない表現だが、「波乱万丈」こそが、本当は当人に
とって「幸い」なことではなかろうか?もちろん「時代性」も絡んでくるだろう。
欲望的にバブル時代を生きた人たちが、果たして本当の意味で「しあわせ」かどう
かは、大いに疑問の残るところだ。
よく言われることだが、我々団塊世代より10年上の世代の人たちは、大方が前述
の恩恵に預かっているはずだ。それが羨ましいという意味ではなくて、やはりそこ
には表面的な軽く薄い「幸せ感」しか伝わってこない。加えて言えば、それらすべ
てがあたかも自分だけの実力、力量にゆらいするものだと思い込んでいる人がいか
に多いかということだ。

リリーフランキーの「東京タワー〜オカンとボクと時々オトン〜」を見直した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
母の葬式の時、満三歳に成ったばかりの僕を抱きあげて、父は棺桶の中の母を
見せた。意図的に・・・。「母親の想い出が何も無かったら可哀想すぎるやろう」
との思いで。その作戦?は見事なまでに成功?して、僕の脳裏にはその場面が
鮮やかにインプットされたのだった。映画の1シーンのように部屋の間取りや坐棺
の位置さえまで蘇る。大きくなったもう一人の僕が、その背後からカメラのシャッ
ターを押すかのように・・・。
父の目論んだ「三つ子の魂百まで」の本意からは少々外れているかも知れないが、
ことの結果は抜群の効果をもたらした。家なき子ならぬ本当の意味での母なき子に
ならなくて済んだのだから。僕が未来の世捨て人的人間に成ったのは、この瞬間が
あってのことだ。叔父が成人した僕に言い放った「おまえは世捨て人みたいな奴だ
な」の言葉は僕にとっては最大の誉め言葉なんだ。だって、僕はいつだって母と共
にいられるのだから・・・。
