おまえら若造にわかってたまるか!
・・・という面と
老いては子に従え
・・・的な部分と
場面場面で、心が揺れ動く
まだエネルギーがあると言えばあるだろう
反面、なにをカリカリしてんだ〜的な自嘲も湧いてくる

今夜・・・
坂道を歩きながら、両側に並ぶ住宅街のガレージにある車たちのメーカーや車名を当ててみる。
昔は、どの車にも個性があって、すぐに車名をあてることができたものだ。
まだ小学校に上がる前の甥っ子なんかは、対向車の名前を即座に当て続けて僕たち大人をびっくりさせたものだ。
今は、どの車を似たりよったりで、近づいてロゴを確認しないと当てることができない。どれもみな丸みを帯びた形状になってきているようだ。
時々、車好きの息子が、特異な車を見つけると「アレ何?」と聞く時がある。そのほとんどを僕は答えることができる。パブリカ、カローラ、コロナ、クラウン、スカイライン、セドリック、ベレット、117クーペ、アルシオーネ、キャロル、プレジデント、デボネア、ミラージュ、コスモ、シビック、アコード、・・・。
人間も一緒かな・・・。個性豊かな人物が少なくなってきたように思う。
私なんか、この世にいてもたいしたスペースはとっていない、そういうふうにいつでも思っていた。人間はいつ消えても、みんなやがてそれに慣れていく。それは本当だ。
でも、私のいなくなった光景を、その中で暮らしていく愛する人々を想像すると、どうしても涙が出た。
私の形をくりぬいただけの世の中なのに、どうしてだかうんと淋しく見える、たとえ短い間でも、やがて登場人物はいずれにしても時の彼方へみんな消え去ってしまうとしても、そのスペースがとても、大事なものみたいに輝いて見える。
まるで木々や太陽の光や道で会う猫みたいに、いとおしく見える。
そのことに私は愕然として、何回でも空を見上げた。体があって、ここにいて、空を見ている私。私のいる空間。
遠くに光る夕焼けみたいにきれいな、私の、一回しかないこの体に、宿っている命のことを。
「おかあさーん!」 よしもとばなな

父が国語の教師だったせいか、あるいは自身が放送部に在籍していたせいか、僕は「話し方」というものに興味を抱く。
此処に書いていることも、僕の肉声で伝えられれば、それはそれでまた違った趣が与えられようというものだろう。
主義主張の立場的差異は大きくあるとしても、僕は西部 邁氏の話し方が好きだ。語彙が豊富だし、横文字の本質的で的確な引用が適度にあって、話中に引き込まれる。
面白いのは、「大きな声では言えないけど・・・」とか「小さい声で言うんだけど・・・」と前置きして、本音をズバリと言っちゃうところが痛快だ。
それにしても、我々は・・・いや僕は、なんと平板な思考形態なんだろうと自己嫌悪に陥る。ものの本質とは何か、事の正邪はどちらか、すべてが曖昧で確固たるものが乏しい。
もっと研鑽しなくちゃいけないな。

その西部氏が・・・
人間の記憶というのは、曖昧なものだなとつくづく思う。
歳のせいでもないだろうが「背景の・・・」で、過去にも書いたことを再度書くこともある。
その内容を比べてみると、微妙に違いがあるのがわかる。
過去の事実も、時とともに変形してゆくものなのかもしれない。
個人的体験を題材にした小説が、時に色濃く脚色されて行くのに似ているのかもしれない。
僕は、甘いと言われるだろうが、基本的に人間〜性善説派だから、あまりひとの悪口を書くことはないのだが、同じことを相手がどう捉えていたか、どう感じていたかは、これまた別の問題なのだろう。
異性であれ、同性であれ、今この年齢になって、ともに酒を酌み交わしながら語り合うことができたなら、どんなに嬉しいことだろう。
でも、そう思う人たちの中で、あのひともこのひとも・・・もう逢うことのできない人がいるというのも悲しい現実だ。もちろん音信不通の人もいる。所は知っているけどこちらから語れない人もいる。
結局はまた、この半バーチャルな世界で再会するしかないのだ。
