そして、船を押し包み有無をいわせず周囲に雷光を走らせる雷雲。辺りに立ちこ
める雷の気配を感じて逆立つ髪の毛と、今は何かの予感に狂ってしまい、いずこを
も指さず一人くるくると回りつづけるコンパス。
そこでは人間は誰だろうと何もかも捨てて、素にならなければならず、ならざる
を得ない。そうなることで誰しもが、人間なんぞこんなものでしかないのだと気づ
き悟らされる。それは人間の原点への回帰ともいえる。一切の感情を伴わぬ、生き
ていながら死を、予感じゃなしにまさに知覚している瞬間だ。いわば不条理の条理
の体得だな。俺は何ほどのものではありはしないという、ある意味じゃ強烈ともい
える放心の中での存在の現実感覚というやつだ。
石原慎太郎 「男の粋な生き方」〜自然との交わり〜