知能と学歴
僕の最終学歴は一応高卒とはなっているが、実際は高校中退が正解だと、今でも思っている。教師の父親の勤務先と同じ中学校に在籍し、窮屈極まりない三年間を過ごした。先生方や生徒たち双方の興味と注目の的で、いい加減な成績は残せなかった。10クラス500人の一学年。委員長、副委員長 × 10 で、二十番以内が認定位という暗黙のプレッシャーの中で過ごした三年間だった。特に進学を前にした三年生の時は、テストの成績上位者が廊下に張り出されたので、さらに圧力を受けざるを得なかった。
高校受験は僕が希望した工業高校・建築科の受験はなぜか拒否(?)され、普通高校の受験となった。しかも県下で1,2を争う進学校。受験後間もなく、教師の特権と言おうか、公式発表の前に父から結果成績を告げられた。九科目800点満点で、750点台だったと言われた。然したる感慨もなく、親の面子は保たれたか・・ぐらいの感想だった。
高校生活は、一年生の時が唯一楽しかった。父から離れられた解放感と、バスケットに打ち込める喜びで一杯だった。しかし、どこからどう漏れるのかクラスメートからは、「渡部君、ここ教えて・・・」という立場が待っていた。これにはさすがの僕も参った。僕には本当の意味での真面な学力などなかったのである。中学校の勉強は基本中の基本。それがひとよりちょっと勝っていたという程度に過ぎない。
高校二年になって、さらに追い打ちがかけられた。校内でも超有名なスパルタ教師が担任となり、みんなは大学受験一直線の体勢に入って行った。僕はと言えば、健康診断で不整脈が見つかり、バスケは退部を余儀なくされた。そこへもってきて家庭内でのごたごたがあって、僕は父母の信仰していた宗教の施設へ入ることとなった。経緯は兎も角、勉学に打ち込める生活ではなくなってしまったのである。
三年生への進級を前にしたころ、熱血先生に職員室へ呼ばれた。「お前はどういうわけか入学試験の成績が良くて、今、辛うじてトップ50にぶら下がっている。このままでは微妙な位置だ。どうする?国公立志望で行くのか!?」僕は自棄になったわけでは無く「就職します」と言ったら「この学校には就職コースは無い!」と周りの先生方がびっくりするくらいの大声で怒鳴られた。「では、私立文科系でお願いします。」「それでは2ランクも下のコースだぞ。耐えられるのか!?」
「はい、それで結構です」
三年生になると、実際周りからは好奇の目で見られた。「なんでアイツが・・・というわけである。しかし、他方で教え込まれた宗教的思索がそれを凌駕し、なんとも感じないようになっていった。今思えば強烈なマインドコントロール下にあったわけだが、心の比重が逆転すれば、世の中のすべての事象が逆転して考えられたわけである。
元同レベルの賢者たちは東大合格者が二桁に迫り、ほとんどが国公立へ受かった。僕は父親の強いた大学の試験は白紙答案で意思表示をし、宗教施設で、布教師の卵として出発を期したのだった。
19歳の夏
原爆ドームを川向うに見る四畳半のアパートで暮らした。台所もトイレも共同。
もちろん風呂などない。僕の中には、極貧とかひもじいとか云うような意識は全く
無かった。反対に修行とか鍛錬とか云うような高尚な意識も無かった。ごく当たり
前のこととして受け止めていた。
まさに原爆投下の八月、水ばかりを飲んで暮らした。木陰をクーラーのように感
じ、三十円のアイスキャンディーが宝石のように思えた。陽炎の揺らめく電車道を
夢遊病者のように歩き。キラキラと輝く太田川の川面に引き込まれるような錯覚を
覚えた。電車賃もバス代も無い、ひたすら歩くのみ。流れた汗が拭く間もなく塩と
なった。
そんなある日、父から小包が届いた。開けると白米と舐め味噌だった。まさに
天の恵み!・・・生き返った!あのままでは野垂れ死にしていただろう19歳の夏。
湖の干拓地 車の通らない跨線橋
独りぼっちの街灯 夢の影
わずかな時間の 待ち合わせ
言葉はいらない
ただ寄り添い 手を握る
あの遠い日の涙は
明日への希望ではなかったのか
高校二年の時、進学校の得体の知れない圧力に屈して、僕は登校拒否になった。自宅は出ても学校の近くのばあちゃんの家に行くようになった。ばあちゃんは問い詰めるようなことは一言も言わず、「カルタ(花札)しょうや」と言って遊んでくれた。僕にも分かるようなイカサマだったが、僕はそれもまた嬉しかった。あの数ヶ月が無かったら、僕は出口の無い暗闇に入り込んで行ったかも知れない。
小学校の遠足の二三日前
汚れたズック(布靴)をタワシで懸命に洗った。
親にあれこれと買ってくれとは言いづらい時代だった。
昭和二十年代の話。
当時は、さすがに裸足というのは無かったが
平素はゴム草履か黒い短靴を履いていた。
どこの家も総じて貧しかったから、履物にそれほどの
執着は無かった。しかし、
大人ならよそ行きの服とか一張羅とかいう言葉が
存在する時代だったから、子供にもそれなりの意識はあった。
子供なりのよそ行き感覚だったんだろう。
徐々に異性を意識し始めて、体裁を考え出したということだろう。
実のところは、そんなひとの風体など気にはしていないのだが
子供なりの自意識というか、そんな感情が芽生える時期だった
のかもしれない。
僕には養子縁組の話しが絶えなかった。母親が三歳の誕生日の明くる日に亡くなり、その後の継母との間に兄姉の反発(家出)があり、義弟が生まれ、家庭的混乱の中では当然のことでもあった。
最初は叔父(母の弟)だったと記憶している。戦争の原因(負傷)もあって子供が無かったこともあっただろう。次は中学生の時の体育の先生。何という巡りあわせか・・・入学と同時に同じ中学校に父が赴任してきて、当然のことながら先生方にも生徒の間でも知れるところとなり、なんとも窮屈な通学となってしまった。バスケット部に入ることとなり、その顧問がF先生だった。おそらくは時間外での酒の入った話の中で、私的な打ち明け話の中に家庭内の混乱が話題となったのだろう。F先生にも子供がいなくて養子話に発展したようだった。
高校時代の途中からは他の記事にも書いたので省略するとして、結果的には親戚のたらい回しとも言える結果となり、他の叔父、叔母の所でほぼただ働きに近い状態で、貴重な青春時代を過ごすことになってしまった。しかし今思えば、一見無駄な遠回りとも思える時代こそが、僕の精神的屋台骨を作ってくれたと言える。これは間違いのないことだ。
養子縁組に絡んで、当然ながら結婚話も具体化する場面が何度かあったのだが、当時の僕にはそれらは夢物語にしか映らず、生半可な返事を繰り返し独り空想的世界に逃げ込んでいた。あらゆる場面場面に亡き母の亡霊が僕の心を支配し、それらのすべてを拒絶させた。僕はずっと抜け殻のように生きていたわけだ。叔父に「お前は、世捨て人のような奴だな」と謂わしめた原因は此処にあったのだ。
言葉の上では失恋だが、相手の方に非は無くて、すべては僕個人の責任だ。相手の同情や母性的感情を、そのまま恋愛として受け入れることがどうしてもできなかったのだ。言葉は悪いが<ヒモ的生き方>も可能だったかもしれない。それを赦さない最後の砦は、やはり亡き母の囁きだったのだ。男と女の具体的な場面場面で、母は登場した。囁いた。男の体に変化をもたらした。一見屈辱ともとれる事象に、僕は母の声を聴いたのだ。あれは<魂の叫び>だったのかな。
失恋は多いほど肥しになると言うけれど
それは後になってから言えることであって
正にその瞬間は絶望と悲しみのどん底にありました。
それにしても、僕をふった(結果的に)女性たちは
大人だったなぁ〜と思う。
僕の後遺症まで心配してくれたんだからな。
さりげないフォローと言うか、薬(?)の処方と言うか
気配りが細かすぎた。
さて、僕個人で振り返れば
子供だった(幼かった)の一言に尽きるのだが
それを早く逝ってしまった母の所為には絶対にしたくない。
大方の人たちが持ち合わせている大きな何かが欠けた存在
しかし、むしろその欠落部分が僕の最大の宝物
そう思えるようになったのも、随分時が経過してからのことだけど・・・
この歳になって
「グッバイ青春」とはなかなか割り切れない自分がいる
大切な宝物
己の中核を構成しているもの
恋の結晶ならぬ失恋の結晶が
今も心の憶測でチラチラと燃えている
貴女の心に同じ灯はありますか?
誰よりも多かったはずの貴女の写真が一枚も無い。
しかもそれらをどうしたのか全く記憶が無いんだ。
燃やしてしまったのかどうしたのか・・・
アルバムの中から剥した形跡もないしね・・・
たぶん、貴女だけのアルバムだったと思うよ。
相当なショックだったんだろうな。
記憶が飛ぶくらいだから。
「結婚」
あの時ほど、♪「22歳の別れ」を切に実感したことはなかったよ。
♪・・・・・・・・・・・・
今はただ五年の月日が
長すぎた春といえるだけです
あなたの知らないところへ
嫁いでゆくわたしにとって
ひとつだけこんなわたしの
わがままきいてくれるなら
あなたはあなたのままで
変わらずにいてくださいそのままで
「笑顔良しのあきちゃん」いつでも誰からもそう言われた
確かに目が二本の線になるほど、いつも笑っていた
でも、誰一人としてその心の奥にある涙は知らなかった
いやむしろその涙を見せまいとするための作り笑顔だったのだろう
表面上の慰めや思いやりがたまらなく嫌だった
ちょっと大きくなって、幾分おませになったころ
そんな思いやりを嬉しく思うようになった
一種の翳りみたいなものが、異性の心を掴んだ
その翳りの源を突き止めたかったのか
単なる異性感情だったのか
とにかく僕は異性の優しさに包まれて幸せだった
でも、心の奥底では例のピエロ性は燻り続けていた
母性愛とはそれほどまでに比較し難い深さと重さを秘めていた
年齢にそぐわない幼児性が、心のバランスを奪った
それが逆に相手を燃えさせもし、驚かせることにもなった
恋愛感情と母性的感情のごっちゃまぜのようななかで
僕の青春時代の前半は過ぎて行った
分岐点は何だったんだろう、何時だったんだろう
能動的、受動的・・・その両方の別離が
僕を本物の男としての自立へのきっかけとなった
本土から遠く離れた小島の磯辺
小舟の縁に腰掛けて
満天の星空を見上げた
言葉を失うくらい・・・
壮大な宇宙の絵巻物に圧倒された
手を握り
肩を寄せ合い
そのまま星空に吸い込まれるような・・・
あのころが幸せの絶頂だったのかな
悲しい別離なんて
これっぽっちも思わなかった
不甲斐ない、決断力のない、意気地なしの僕
明るく軽やかに、グイグイと引っ張る君
あのまま付いて行けばよかったのかな・・・
「どうして、そんなに苦しい方へ苦しい方へ行くの?」
明確に答えるだけの根拠が見出せなかった
ただ・・・
ただ・・・
男としての変なプライドみたいなものが
目の前の温もりを、優しさを遠ざけて行った