経験したことに変わりはないはずなのに、まさにその時の感覚と、半世紀を越えて思い出すのとでは、これほどまでの違いがあるのかと驚かされる。
当時十八歳の僕からすれば、二十三歳の彼女は、とんでもなくオトナに見えた。年取ったという意味ではなくて、ホントに大人感がいっぱいだったのだ。いま、間近に見るその年齢に達した姪っ子たちを見れば、比べものにならないくらい幼稚に見えて、どうかしたら彼女たちの親でさえ、その存在感からしたら、当時の彼女の方がオトナに思えるくらいだ。
そんな目で見れば、高校生や中学生である孫たちでさえ、同時期の僕と比べても、はるかに幼く見えるのは、どうしたものだろうか。
おそらくこれは僕の推測ではあるが、歳を重ねた自分の意識や視点が、若かりし頃の自分と同化して、当時の自分をオトナ化して観ているのに違いない。おそらくは、当時の僕も、ホントは彼等彼女らと一緒で、幼いこと極まりない存在であったに違いない。
やり直しのきかない人生。一度きりの人生。・・・が、しかし・・・思い出は新たなストーリーを展開して見せる。それが僕の願望なのか、はたまた彼女たちの悲願なのか。鮮やかなまでのストーリーを展開して見せる。
現実界には存在しない彼女たちでさえ、この現世に蘇り、僕に囁きかける。

人間の存在する宇宙への意識がいかに拡大されても、数億光年遠くの宇宙の確たる存在を認知できることになっても、人間の生命の限りがそれで拡大されるわけでもありはしまい。人間の存在の意味や意識が膨張するわけもありはしまい。我々は宇宙時間総体に比べれば、まさに瞬間的な時間にすがって生きているのでしかあるまいに。
石原慎太郎
