人間、居場所が変れば、俄然隠れた才能が開花することがある。
スポーツの世界に限らず、仕事や仲間づきあいにおいてすら・・・。
<水を得た魚>の表現が当てはまるかどうかはわからないけれども、これまで
抑制され続けた世界から解放されて、活き活きと動き回っている人がいる。
これまでの障害物?を云々するよりも、先にある光に向って進むという選択肢は
正しかったと思う。
さて、わが身に置き換えて考えた時、いわゆる障害物に立ち向かい続けるのが
良いのか悪いのか?彼のようにハッキリ訣別という選択が良いのか悪いのか?
もう一人の自分を見つめ直す時、しゃがみ込んで、エネルギーを溜めこんで、
ジャンピングアップの機会を伺う姿に、共鳴する自分がいる。


本の帯に、「自分と妻」の死後の出版を条件に・・・と書かれているように、まさしく赤裸々な内容で、どちらが存命中でも出版は難しかったであろうと、この僕でさえ思う。
読みながら、まったくスケールや舞台や異性の度量などの違いはあれど、わが身にもそれらと酷似した体験があったなと思いながら読み進んだ。僕も、ここでそれなりに書いてはきたつもりだが、やはり存命中のひともあり、自分も生きているとなれば、その中身には当然ながら限度がある。
結論付けるほどのことではないが、そうした体験が自分と言う「男」を形成した貴重な必要欠くべからざる源であることは断言できる。