さよならも言わないで
去ってしまった あなた
さよならは 永遠の別れとでも言うように
言葉も文字も残さなかった あなた
かすかな希望の欠片さえも残さずに
まるでそうすることが 別れの美学とでも言うように
あの頃のかすかな余韻の場面の中に
希む光を見つけようとしたけれど
僕を拒絶するように 扉は閉じられていった
鍵止めのない扉が 非情の風に
ゆらゆらと悲しい鳴き声をきしませていた

『修行とは 苦労を楽しむことなり』 (日扇聖人)
僕の人生の師匠が、父に僕のことを話されたとき、この言葉を用いられたと
後になって聞かされた。「秋夫君は、ずいぶん苦労をしたみたいだけど、そのこと
を口にはしないし、その苦労が身に付いているというか、何とも言えないにじみ出
て来るものがありますね。」と言われたとか・・・。
もちろん僕にはそれほどまでの意識があるわけでもないし、楽しむなんて言う
領域にも達してはいないのだが、ただ、彼女に「どうしてそんなに苦しい方へ苦し
い方へ行くの?」と言わしめた内容が、それに通じるところはあるかもしれない。
二十歳そこそこで、そこまで達観していたわけではないけれども、このままでは
甘え人間に落ちてしまうという漠然とした意識があったことは確かだろう。
人は失うことによって何かを得る。喪失感が大きければ大きいほど、そこから
生まれる希望の光は輝きを増す。大袈裟に言えば、それが己の血となり肉となり
何とも言えない人間の輝きを形成してゆく。これは自分から見て、人生を安易に
捉えて、近道を選んだ人間には掴み得ない宝物だと確信して言えることだ。
いい年になって、それでもまだ青春時代のような黒い渦の中にいる。でも、また
あの若いころのように、「これが僕に課せられた試練なんだ」と受け止める自分が
いる。「いつも青春、いつも青春、いつも心の流離い」
