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背景の記憶(163)

    「自画像」

 彼は或る家の長男である。背も高いがずんぐりしているので相撲取りのように不格好な体つきだ。その上歩く時はまるで老人のようによちよちと、おまけにツンとすまして歩く。よちよちして歩くのは小学校の頃足を折ったせいだ。彼は友達に出会うと、必ずニヤリと何だか訳の分からない笑いをうかべる。おそらく自分ではあいきょうのいい顔をしているつもりだろう。

 彼が小学校の頃足を折ったというのは、さんざんあばれたあげくの事で、彼の小学校時のあばれんぼうずは有名だった。教官室に呼びつけられた数えきれないくらいだが又成績の方も非常に良かった。でも彼の今の成績ときたらさっぱりだめだ。おそらくまだ昔の夢を見て、「自分も頭はいいのだから少しでもやればいくらでもよくなる」などと自慢にもならないことを考えて、一向に勉強しようとしない。まあそのうち後悔する時がくるだろう。

 彼は人のいうことはなかなか通さない。一応は「ふんふん」と聞いているが、実は心の中では「フン」と冷笑している。そのくせ自分はろくな話らしい話も出来ないのだからいい気なものだ。

 彼はまた、一面非常に気の弱いところがある。だから一人で買い物に行くことはめったにない。行ったとしても店に女の人がいるとなんだかはずかしいような気がして、いつまでももじもじしている。それに、同じ学級の女子や先生が向こうからやってくると、別段用のない横丁へはいって、通り過ぎると出てきてまたツンとすまして歩く。全く臆病なやつだ。これは彼自身十分認めているところだ。でも家にいるときは大変いばっているのだから妹や弟にもとかくきらわれる。

 父はひとがよくて、というよりあきれるほどの無口で何をいってもめったに怒ったことがない。だから正に彼の天下である。外での弱さを家の中で強く出すいわゆる内弁慶だ。そのくせ父が一番こわいというから不思議だ。

 まあ彼のいいところといったら人のいいこと、飯を炊くのがうまいこと、また彼には似合わぬ素晴らしい闘志をもっていることだ。でもこれはよほど自分が困らないと出てこない。まあこれ位のものだろうと彼自身は思っているらしい。

 彼は海辺に育ったせいか非常に短気で、腹が立つとやたらにあらい言葉をあびせる。一寸気にくわんところがあるとその人を徹底的に嫌う。だから反感をかうことが多い。でも反面涙もろいのでそういう人にやつあたりした後でいつも淋しい気持ちになるのが常だ。

 彼は人が何か聞くとそれに対して素直に答えることがない。いつも人を皮肉ったような答え方をする。どうもこれは慢性のものrたしい。

 彼は退屈するとラジオでまんざいや落語を聞いて一人でケラケラ笑っている。これを妹や弟が見て「気が狂っておらせんか?」などとかまうのでたちまち彼はふんがいして「何ッ」と大きな声でどなる。これも内弁慶のあらわれだ。そんあものを聞いている時間があったら宿題の一つでもしたらよさそうなものだのにめったに宿題などやったことがない。大人になっても大した人物にはなるまい。あのカビの生えたような頭でいったい彼はいつも何を考えているのであろうか。彼はまったくとりとめのない実に奇怪な人物である。彼は今年十六才と三カ月の青年のような少年である。終わり。

         兄・喜久 作

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背景の記憶(162)

    隆夫さんの思い出

 隆夫さんが知夫へ帰ってきたのは、たしか昭和十八年の秋であった。その頃私は隣島の海士村に勤務していて、郷里知夫にはいなかったはずだが、記憶の糸をたぐり寄せると・・・

 その夏私は自分の不注意から満二才の寛典を失った。私たち一家四人は御波小学校の狭い宿直室で暮らしていたが、寛典は生まれつき皮膚が弱かったのか全身湿疹で、包帯だらけだった。(頭に包帯を巻いた小さい身体が、板間の控室で竹刀をふりまわしていた姿が目に浮かぶ)ある人がこんな子は潮につけたらと言ったのを、まにうけたのが災いのもとだった。ある日一家で近くの海岸へ水浴に行った。その直後寛典はおかしくなり、家内が夜中に「お父さんはや起きて」と騒ぎ出した。急きょ知夫へ連れかえり(近くに医者がいなかったから)すぐまた別府の勝部医院へ便船で運んだが、さすがの名医も首を傾げるばかり、絶望は目に見えていた。「とうちゃん、いかあやいかあや」とせがむ寛典を背負って、自宅の周りの坂道を行き来したのが、痛恨の思いとともに蘇ってくる。八月二十二日あえなく他界、心ばかりの葬儀をすませた。

 前後は忘れたが、その九月から母校を会場とする文部省主催教員再教育の三か月研究科入学通知があり、暗い悲しみの中で支度をしていたが、家内の様子がどうもおかしい。愛児死別でたいそうやつれているようなので、このまま農事に忙しい両親のもとへ残しておいたら大変なことになりそうだという不安にかられた、五才の長男もろとも三か月いっしょに松江に連れだすことにし、家内の従姉の山田テフさんに頼んで、法吉村国屋の農家の離れを借りることができた。

 その年の秋は大水害があり、水につかった黒田の畦道を当時の法吉役場へ米穀通帳などの手続きに行ったこと、十一月のおいみさんに長男の喜久を肩車にして詣ったこと、幸子(家内)がテフさんと従姉妹どうし付近の山を薪拾いに歩き回ったことなどそのほかいろいろ思い出される。そして全く本人さえも初めのころ気がつかなかったのだが、次女の素子が腹の中にいて、三か月の間にみるみるふくれあがった。

 隆夫さんが知夫に帰ったのはたぶんその松江に出るまでの短期間うちにいた時にちがいないと思うのだが、明治大学を出て、就職直後だったはずだ。後から思い合わせると、姉二人(島崎の伊佐さんと幸子)いる、父母の生まれ故郷へそれとなく別れを告げに来たにちがいない。ごくわずか二、三日しかいなかったと思うのだが、その決意を秘めて、後で海軍志願したと聞いて、あっと驚いた記憶がある。隆夫さんと軍人、およそ考えられない取り合わせだった。そしてまさか二年後戦死などと思いもよらなかったから。

 隆夫さんは見るからにおとなしい、まじめな性格だった。兄弟姉妹みなそうであるが、隆夫さんがまさか自ら志願して軍人になろうとは夢にも思われなかった。谷川のお父さんはすでに亡くなっていたが、この、平時であれば考えられもしない二十歳の若者(ほんとに若い!私たちもそうだったが)を戦場へ駆り立てたものは何であったか。本土死守、皇国護持、一人で優秀な飛行機乗りがほしい、純真無垢な若者はただひたすらに、この父母の国、最愛のはらからの国を鬼畜米英の来週から護らざればという一念のほか何ものもなかったに違いないのだ。

 それからの〜母ハツさんの半狂乱とも思われる飛行場巡りが始まる。名古屋ー美保基地、あのころのお母さんの心事、「軍国の母」ということばはあるが、とても簡単に語りつくせるものではない。

 隆夫さんは美声だった。稀にみる美声だった。今生きながらえてのど自慢にでも出場したら、ぜったい金賞まちがいなしの美声だった。私たちの結婚の里帰りの晩餐祝宴で歌った学生服姿の美声は(なんの歌だったか)終生耳の奥にはりついてはなれない。

            (平成六年十月二十四日 渡部一夫)

※隆夫叔父は昭和二十年四月七日 特攻隊で戦死

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