人間はどれくらいの周期で生まれ変わるものなのだろう?
諸説いろいろあるようだが、そもそもまたしても人間として
生まれ来れるかどうかも分からないわけで・・・。
これはまったくの受け売り話だが・・・
遠い昔殺された魂が、この世で相手と兄弟、あるいは親子として
生まれ来て、ある段階でそのはるか過去の仇を打つ・・・
という話。なんとなく話として分かる様な気がする。
現実的報道では「家庭内殺人」とか「家庭内暴力」とかの
表現になるのだろうけど。
「魂は永遠なり」ということか。
過去のブログ
↑ここでは、「心が覚えている」と書いているが
「魂が覚えている」と書くべきだったな。
まるで「ふるい」にかけられるように、人間も残るべき人が残ってくる。
それは単に僕自身のあるいは対象者の好みとも関係性があるのだろうけれど
僕はもっと奥深い部分での<接点>が「ふるい」の網の目を決定付けていると
思う。
僕的には、僕の持つ網目は何でも留まると認識しているのだが、他人様に言わせ
れば、どうも逆に大方が透かされてしまうようだ。
それを良しとするか否かは、意見の分かれるところだが、もうこの年まで来たら
今更その網目を変更のしようがない。
逆説的に言えば、僕自身にしたって、他人様の網の目をいとも簡単に透かされて
いるのだから。
それはどんな場所であれ、フォロアー数や(いいね)の数に一喜一憂するのに
似ている。数の問題ではなくて個々の質の問題だろうと言いたい。
我が家の玄関横の小さなガーデンの植物たちへの水やりが、
僕の役目の一つなのだが、あまりの酷暑続きなので、
早朝の日陰時間にすることにしている。
ある植物学者が言っていた…「雑草という名の植物はない!」と。
そう言われてみると、「この雑草め!」と容易く引っこ抜くわけには
いかないような気持ちになる。
そもそも僕自身、とれが雑草なのかも定かではないので、
つい躊躇してしまう自分がいる。
実際、しかるべき時が来たら可憐な花を咲かせたのを見て感動した
経験があるので、そう簡単には引っこ抜けなくなってきた自分だ。
家内は見分けがつくようなので、いとも簡単にヒョイヒョイと
抜き取って行くが…。
憐憫の情とでも言おうか、ちょっと可哀想な気持ちになってしまう。
稲や野菜たちの邪魔物でもないんだから、共存させてあげれば…
なんて思ってしまう。
僕の「この部屋」は、いわばサテライトスタジオのようなものだ。
通りすがりの人が、ちょっと立ち止まって話を聞いたり、
「何やってんだろう?」とのぞき見したり、そんな場所だ。
でも人通りの多い表通りではないから、通りすがる人の数は知れている。
自分としては、そんな適当バランスのこの場所が落ち着くし好きなのだ。
でも時々、内側から外を見ていて、ハッとする人を見かけるときがある。
そんな時は、とても臆病者の僕だけど、横のドアを開けて通りに飛び出し
その人に声をかけてみる。
これはとても勇気の要る行為だが、僕はインスピレーションを大事にしたいので
思い切って声をかけてみる。
これまでの二十数年間で片手ほどの数にしかならないが、それが「感性」であり
フィーリングであり、そしてそのマッチングなのだ。