「向こう三軒両隣」というけれど、今やこれも死語になりつつあるようで、
借家や集合住宅ともなれば、名前どころか顔さえも分からないというのが
現実である。
今朝の出来事、息子が仕事へ出かけたと思ったら、すぐに帰ってきて
「向かいの○○さんの家から声がする!僕は約束の時間が迫っているから
見て行ってあげて!」とのこと。向かいと言っても長い階段を隔てたお家で、
急いで駆け上がってみると、おばあちゃんが庭で倒れていた。
家内も後からやってきて、二人がかりで抱き起してあげた。どうも庭の
草むしりをしていて、ちょっとした段差に躓いてこけてしまったらしい。
運悪く物干し台の支柱の間に挟まれるように倒れてしまい、自力では立ち
上がれない状態になってしまっていた。
隣の敷地は空き地、真向いの家一軒は工事中で、今日は業者も不在、もう
一軒はすでに留守という悪条件が重なった状況だったのだ。われわれも家の
中では、テレビの音にかき消されて、おばあちゃんの声は聞こえなかっただ
ろう。いずれにしても大過なくて良かった!良かった!

世の中にはすべからく層というものがあって、それを心の落ち着き場所と
捉えれば、自ずとその層は見えてくる。もちろん野心を抱いて上の層を目指す
人も多いだろうが、それが是か非かはまったく別問題だ。
安心安住という観点から言えば、あまり他人様との比較で考えるのは正当とは
言い難い。そこに経済状況が絡めば尚更だ。上流だとかセレブたとか、
経済的階層でもって精神的心的内容も当てはめてしまうのはおかしいと思う。
身分不相応というのは、他人の目から見れば歴然だ。見るからに不相応な
身なりや家屋というのは、そこら中にわんさかいる。
中身の人間よりも、表面の服が歩いているといった輩はそこらに溢れている。

生涯において、何十人、何百人に逢ったって
そのつながりの密度が薄ければ
逢わなかったに等しい
車を降りてみよう
そして
ゆっくり歩いてみよう
ゆっくり・・・ゆっくり・・・
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♪ふりかえってみるのもいいさ
道草くうのもいいさ
僕らの旅は
果てしなくつづく
時には疲れたからだを
木かげによこたえて
想いにふけるのもいいさ
旅はまだつづく
いろんな人に逢うさ
いろんなことがあるさ
僕らの度は
果てしなくつづく
知らない街で愛をみて
ふと立ちどまり
こころの置き場があれば
それもまたいいさ
なぜか悲しい夜だから
誰か話しかけて欲しい
でっかい地球とでっかい夜が
ドアの外に見える
どんな言葉でもいいから
少し心を見せ合おう
小さな自由と小さな愛が
伝わるだけでいいのさ
人が恋しい時がある
ここに一人でいる僕を
夜空のどこかにしるしておきたい
愛する人に届けと

今日、9月1日は防災の日
しかし、父にとっては<亡妻の日>であった
昨日(8月31日)が僕の誕生日
つまり僕の満3歳の誕生日の明くる日に母は亡くなった
父は詩集に書き残している
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魂はもはや歔欷(きょき)でもなく叫喚でもない
わたしはただ(おそらく)
見まもりたいだけ
生あるかぎり
そうしたいだけ
台所にいた三歳の秋夫が大きな声で
「まんまごせ」
とどなっているのを
「アレまんまごせとや」
と病にさいなまれているおのれのくるしみを瞬時忘れて口ばしった
その前後の呼吸麻痺で苦しく
しかしそのわが子の無心の叫びは
母の耳をとらえて
瞬時業病との戦いを忘れたかにみえた
ああその秋夫と
東京に
素子の嫁入りにいってきたよ
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