「蘊蓄」という言葉があるが、あれも大嫌いである。
品性の欠けらもない。
「△△って何のことだかわかりますか?」
「××がなぜああなるか知ってますか?」
という話し方をする人がいる。
私の周囲にはほとんどいない。それは、そういう会話のやり方をすると、
私が注意するからだ。
「君、どこで覚えたかは知らぬが、そいう会話のやり方はやめなさい。訊かれた人がその答えを知らなければ、そんなことも知らないのか、と相手を試しているように聞こえるし、仮に知らないとわかって、君がその答えを出せば、まるで君が相手より物事を知っているように見える。そういう話し方は下品で傲慢にしか聞こえない」
大人の男はそれを十分知っていても、「さあ、詳しくは・・・」と応えねばならぬ時が多々あるものだ。それを待ってましたとばかり喋り出すのはただのガキで、バカである。
伊集院 静

「名も無き雑草」と言うと、「植物に名前のないものは一つもない!」と
植物学者さんに叱られる。もとい!僕が名前を知らない草花が、コンクリートや
アスファルトの隙間で、逞しく生きている。
野村克也氏ではないけれど、まさしく<雑草魂>を見せつけられ、これは
人間社会にも共通するものだと思い知らされる。
文字通り有名人、著名人は、世間にその名を知られて存在であり、その他大勢は
名はあるけれども、大衆や住民の呼び名のもとにひとくくりにされてしまう。
大方の有名人が、そのギャラの額や人気度で格付けされ、あたかもそれが
人間度の格付けでもあるのように報じられる。それを鵜呑みに信じてしまう側も
問題だが、然るべき人たちは、そこらの線引きは当然のようにさりげなく行って
いるのだろう。
人は人、私は私、あなたはあなた、僕は僕

世の中が様々なハラスメントに対して、NO!の声を上げ始めたことは認める
が、悲しいかな大方は、何か事が起こってしまってからの話しであり、具体的事件
になる前に、つまり事件化を未然に防ぐ段階での行動が大切ではなかろうか。
しかしながら、当事者的立場の者としては、非常に勇気の要る話であって、
極端な言い方をすれば、赤穂浪士的心境とでも言おうか、<刺し違え>覚悟と
言ってもいいくらいの忍耐と決断が求められる。
僕は、ささやかながらその行動を求められる立場にある。僕が決行しなければ
他の誰も出来ないし、僕が躊躇すればするほど被害者は増大し、最悪のケースを
招かないとも限らない。超現実的言葉を用いれば、警察沙汰になる前に動くことが
求められているのだ。
世の加害者は平然と言ってのける・・・「これは厳しい躾の一環だ!」
「これは愛の鞭だ!」・・その偏った思考に立ち向かうのは容易なことではない。
でも一方で、事件化されてしまっては元も子もないので、やはり自分が如何に
動くかと言う処に戻ってしまうわけだ。
