男は何で自分を磨くか。
基本は「人間は死ぬ」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。
もう、そのことに尽きるといってもいい。何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。
自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。
そうなってくると、自分の周りの者すべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。
逆に言えば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。
仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、それから衣食住すべてについていえることは、「男のみがき砂として役に立たないものはない・・・」ということです。
その人に、それらの一つ一つをみがき砂として生かそうという気持さえあればね。
池波正太郎

とにかく・・・僕は歩いてみたさ
蹴躓いても 転けそうになっても
公園のブランコやシーソーが
憐れむような顔して笑ってる
石のベンチに腰を下ろせば
その冷たさが慰めにも感じる
ふと浮かぶ剛の歌詞に
少年の自分が蘇る
しゃぼん玉なんて
一体いつからやってないんだ?
あの儚いしゃぼん玉は
あの頃の僕には夢の玉だったのか?
重い腰を上げて
僕はまた歩みを続ける
車の十分が
徒歩なら百分だぜ
心のケツに鞭を入れてみる
どうだ?まだ歩けるかい?
走れとは言わないよ
一歩、また一歩・・・
踏みしめてみろよ
そして汗を拭くとき
あの青空と白い雲と
なによりもお天道様に
ご挨拶をすることだな
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪帰りたいけど帰れない
戻りたいけど戻れない
そう考えたら俺も
涙が出てきたよ
くじけないで なげかないで
うらまないで とばそうよ
あの時笑って作った
しゃぼん玉のように
淋淋と泣きながら
はじけてとんだけど
もっと俺は俺でありますように
いったい俺たちは
ノッペリとした都会の空に
いくつのしゃぼん玉を
打ち上げるのだろう?