「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだと思っていなさい。倒れれば、打ちのめされたら、起き上がればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度、歩き出す力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」
伊集院 静
親も子も存命で、それが当たり前のように生きている家族は、深い意味で、はたして幸せと言えるのだろうか??ごく身近な所で、骨肉の争いを繰り広げている家族もいる。その情景を外野席から見ていると、意味深な溜息が出る。
僕は、母親の温もりも知らないし、父親や兄姉と暮らした年月もわずかだけれど、僕の心の中には人一倍、彼らは生きているさ。常に、そう常に、彼らから見つめられ続けていることを、もっと言えば、護られていることを実感して生きている。
だから、この娑婆の辛苦は「何をこれしき!」と思って生き抜いてきたさ。他人様が言うほど「修業とは、苦労を楽しむことなり」の実践者ではないが、それに共通するような生き方をしてきたことは事実だ。そしてその内奥には、先述の<母の守り>が厳然と存在していたからであり、父、母、兄姉は、僕と共存し続けているのである。
悲しいかな、人間は失わないと、その有難みを掴めない。
心の中で拳を握っているのだが
その対象がなんともでかくて
強行すれば骨折しそうだよ
かと思えば、もう一人は
ぬかに釘~状態だし
肩を脱臼しちゃいそうだ
誰かの台詞じゃないけれど
なんともこの世は生きにくい
心の刃を研ぎ澄まし
言葉の礫を袋に詰め込んで
臨戦態勢を整えている
それにしても…
こっちの相手はでかすぎるし
あっちの相手は腐ってるし
なんとも
モチベーションが保てない
アメリカインディアンのように
七世代先を見つめた生き方が
できるだろうか?
次世代どころか、自分の事で
精一杯では情けない
せめて孫の世代まで考えた
生き方、接し方をしたいものだ
「いいか、失敗、シクジリなんて毎度のことだと思っていなさい。倒れれば、
打ちのめされたら、起き上がればいいんだ。そうしてわかったことのほうが、
おまえの身に付くはずだ。大切なのは、倒れても、打ちのめされても、もう一度
歩き出す力と覚悟を、その身体の中に養っておくことだ」
伊集院 静
大きくなる樹木は、人の目には見えない所で懸命に、
その根を幹を強靭にしようとしている。
逆に、ひょろっとした草木は
自身の蕾の重さにさえ耐えられず
うな垂れてしまう。
振り向けば寂しい
きみの住む故郷
若い日の涙は
明日への涙か
暗闇の彼方に
口笛か流れる
この道はいつの日にか
希望につながる
東の空に日が昇るまで
とても とても遠い旅路さ
暗闇の彼方に
口笛が流れる
この道はいつの日にか
希望につながる
心荒めば
言葉も荒む 顔も険しくなる
心穏やかなれば
言葉も穏やかになる 表情も柔らかになる
抜け出せたかな 心の嵐
きっかけは 君の優しい微笑だ
そっと包み込む思いやりだ
昨日の自分に サヨナラしよう
今日の自分を 大切にしよう
明日の自分を 君に捧げよう
呆けた人間に腹を立てるのは空しい
相手が真面?であっての腹立ちなのだ
しかし、しかし・・・
そいつが(敢てそう言わしてもらおう)真面であった頃の所業に
腸が煮えくり返っているのである
(もう一人の自分が囁きかける)
あの状態があいつの受けるべき報いなんじゃないのかい?
今更、お前が何と言ったって、相手に伝わる訳じゃない
いい加減、卒業しろよな
(なるほど・・・)
地獄に落ちるまでもなく
この世で地獄を顕しているわけだ
僕のしゃしゃり出る幕じゃない
「蘊蓄」という言葉があるが、あれも大嫌いである。
品性の欠けらもない。
「△△って何のことだかわかりますか?」
「××がなぜああなるか知ってますか?」
という話し方をする人がいる。
私の周囲にはほとんどいない。それは、そういう会話のやり方をすると、
私が注意するからだ。
「君、どこで覚えたかは知らぬが、そいう会話のやり方はやめなさい。訊かれた人がその答えを知らなければ、そんなことも知らないのか、と相手を試しているように聞こえるし、仮に知らないとわかって、君がその答えを出せば、まるで君が相手より物事を知っているように見える。そういう話し方は下品で傲慢にしか聞こえない」
大人の男はそれを十分知っていても、「さあ、詳しくは・・・」と応えねばならぬ時が多々あるものだ。それを待ってましたとばかり喋り出すのはただのガキで、バカである。
伊集院 静