瀬戸内の県にはそれぞれに滞在したことがある。岡山県赤磐郡、広島市、山口県萩市、いずれも数ヶ月という期間ではあったが、それぞれに想い出が詰まっている。列車が通り過ぎる度に、想い出が甦る。若かったから出来たこと、知らなかったから出来たこと、それぞれが貴重な経験だった。
。
それにしても僕は隣の彼女の回りのことは妹さん以外は、ホントに何も知らなかった。知らされていなかったというほうが正しいかも知れない。ご両親は?ご親戚は?なかなか問いかける勇気は無かった。向こうに着けば、必然的に分かることではあるが…。そして列車はいよいよ九州へと入って行った。
施設のなかのある人から聞かされたことがあった。彼女の妹さんは僕より一つ年上だったのだが、お姉さんとは正反対の性格で、控えめなおとなしい人だった。その彼女が僕のことが好きだと言うのだ。だけどお姉さんの手前、自分が引くしかないと思っていると…。この情報には少々参った。その妹さんとも顔を合わせることになる。違った意味で憂鬱材料が負担に思えた。それにしても、姉さんのこの行動力は何処から来るのだろう?僕は又しても彼女の横顔を見つめるのだった。
博多到着のアナウンスがあった。僕は保護者に手を引かれるかのように、ホームに降り立った。
脱出は自分本意に考えれば、勇気であり、挑戦であり、希望である。しかし、他方を考えれば、裏切りであり、非礼であり、侮辱である。僕はそれを
何度繰り返して来たんだろう。今回のこれは、愛の逃避行と言えば小説じみているが、自分のことでありながら、何処か他人事のようなところが、心の奥底で渦巻いている。もう一人の自分が、その主体性の無さを糾弾しているのだ。「おまえは「二者択一の時、苦しい方を、厳しい方を、選んできたんじゃないのか!…と。
昨晩の長考の原因は唯一そこにあったのたが、今回だけは、そのまた先の自分への挑戦に賭けたという点に、比重を置いている。些か言い訳じみてはいるが、先が見えないことには変わりはない。
ふと、藤圭子の「京都から博多まで」を心の中で歌ってみる。彼女はこの逆を実行に移したわけだ。またもう一つ、北島三郎の「博多の女」が甦る。「ひとの妻とも知らないで、俺は来たんだ博多のまちへ 逢わなきゃよかった 逢わないで 胸に生きてる初恋の 君をこの手で抱いていたかった…」なんとも現実とは裏腹な否定的な文言が並ぶことか…
そんな僕の心を知る由もなく、相変わらず彼女の横顔は、安心と自信に溢れた顔をしている。
大津の宿を出るとき、女将がちょっと不思議そうな眼差しを向けてきた。どんな二人に見えたのだろうか?歳の差は勿論のこと、第一風体からして二人は違い過ぎた。彼女はこざっぱりとしたスーツスタイルだし、片や僕はヨレヨレのジーパンスタイルだ。どう見ても釣り合わない。彼女はそんなことお構いなしとでも言うように、テキパキと勘定を済ませ、駅に向かうタクシーに乗り込んだ。
京都駅で新幹線に乗り換えて、いよいよ博多へと向かった。この時、僕の心はまだ落ち着かなかった。つい二年前、松江から京都への逃避行(宗教施設からの脱出)を思い出していたのだ。安来を抜けて米子を過ぎた時、やっと心の落ち着きを取り戻したのだった。あの時と同じ感覚だった。別に叔母が追いかけて来るわけでもないのに、心はそれに近い心境だった。神戸を過ぎた頃、やっと僕の心は落ち着きを取り戻していた。
彼女を横目で伺うと、いかにも安心と言う感じで落ち着き払って外の景色を眺めていた。その表情からは「大丈夫!私に任せておきなさい!」とで言いたげな雰囲気で、心がどっしりと構えているという感じだった。僕の視線に気づいて、彼女が僕の方を向き無言で「何?」という顔をした。僕は見透かされた感じがして、ちょっと照れ笑いをしてこう言った。「何にも無いんだけど・・・お金も、着るものも・・・」彼女は今度は言葉に出して「大丈夫!ノープロブレム!」と言った。
男のプライドも何もなく、全ては彼女にお任せで、僕はまさに大船に乗った気持ちで眠りに落ちて行った。
、
湖畔の宿で眠りにつく前に、僕は意を決して彼女に告げた。「明日、一緒に博多へ行くよ。」それまで僕の返事があまりにも遅いので、半ば諦めてた彼女の表情がみるみるうちに変わった。そしてそれは驚きと喜びとが入り交じった複雑な表情へと変わって行った。やがて無言で抱き合い、安心の極致とでも言うように、二人は深い眠りに落ちて行った。
翌朝、不思議そうな眼差しの女将の見送りを受けて、僕たち二人は電車で京都駅まで出て新幹線のホームに立っていた。僕は荷物など何一つ無い。用意のために叔母の家に帰れば、強く引き留められることはあきらかだったから。叔母はこうなることをかなりの確率で予測していたのだ。それが僕の本質でもあり、女の勘でもあったのだ。
列車に乗り込んで、しばらくしてから、彼女がふーっと小さくため息をはいた。それは真底安心しきったようなものだった。彼女は大きな人生の賭けに勝利したのだ。僕はと言えば、ある種の後ろめたさと、明日への希望の入り交じった不思議な落ち着きの中にいた。窓外を見るふりをして彼女の横顔をうかがった。それに気づいた彼女がちょっと眼を見開いて「なに?」と無言で問いかけた。僕もまた無言で「ノープロブレム!」と返した。こんな会話ができるのは、僕たち二人だけだと改めて確信した。