刹那的に考えなさんな
僕は分かっているんだ
これは半世紀以上前のあなたの言動
つまりは、あなたの生き方そのものの報いだと…
仏教は、究極の自業自得宗だという
まさしく、善因善果 悪因悪果
罪障を功徳で引き算は出来ないんだよ
人生に一発逆転サヨナラ満塁ホームランは無いんだよ
うさぎと亀 アリとキリギリス
寓話は子供にだけの話じゃない
大人への重大な警鐘でもあるんだよ
あの人も あの人も
素知らぬふりして通りすぎて行く
僕は呼び止めかけた手を引っ込める
忘れられたか
気にもされない存在か
もう数十年前の流行り歌が
僕の心を慰めてくれる
僕はいつも言ってきたよな
自分が思うほど
人は僕のことなんか気にしちゃいない
ああ、分かっているさ
過去には何の生産性もないことくらい
でも、ちょっと言わせてくれ
過去に元気づけられることだってあるんだよ
過去の人に
過去の出来事に
勇気を蘇らせることだってあるんだよ
だってそうだろう
今だけと語る君だって
過去の努力や乗り越えた苦難があったからこそ
今の自分が居るんだろう?
違うかい?
しかし、そう言い切る自分も
実は自分の中では
過去の出来事や過去の人たちとに交わりを
今の自分に津語良く脚色しているのかもしれないね
それでもいいじゃないか
と居直る自分がいる
ボケが始まってからでは遅い。
第一、ボケてしまったら、自分を客観視出来ない。
だから指摘されれば、
「わたしはボケてない!」と言い張る。
むやみに叱ってはいけない~とも言う。
介護施設の暴力問題があるように、
小単位の一家庭でも起こり得る。
ボケた者同士なら尚更のことだ。
余裕を持って見守る、介護するというのは綺麗事だ。
ちょっと方向を間違えれば、暴力沙汰が待っている。
仕事で伺う老人宅でも、
危険度満載が伺える。
さて、自分はどうだ?
家内はどうだ?
我が家はどうだ?
さて、身近な所で、熟年離婚が現実味を帯びてきた。
しかも最悪なことに、どちらも認知症ときた。症状の度合いの違いはあれ、
泥仕合に近い。
話は両方聞いてみなきゃ分からない…というが、
これでは判断が難しい。しかし、事が暴力
沙汰ともなれば、当事者への風当たりは強い。
祖母の時の症状を思い出す。夜の徘徊やお金を盗まれたやら、大変だったと聞いている。
それに近いのかな。食べ物に毒を入れられたとか、
殺す気か…となると、かなり際どく末期症状と言わざるを得ない。
もっと早い段階で、気付くべきだったのだろう。
子供じゃないから表面化するまでの時間が、余計に事を遅らせる。
行司役か裁判官役か知らないが、出来れば避けて通りたい。
夢がある。それは一月位の一人旅。
車は無理かな。
でも、自由さを考えると、やはり車となるか。
コースも会いたい人も、ほぼ確定している。
問題は、相手に対して事前予告かサプライズかだけだ。
僕は後者を望む。それでこそ本旨が生きる。
人によっては、もう没しているかも知れない。
当然、「会わなきゃ良かった」もあるだろう。
それこそ人生だ。
究極の目的は、「ただ一人のひと」に逢うこと。
夜中の直撃!
家が激しく揺れた
ベランダに置いてた物がひっくり返っていた
台風一過で涼しさが来るかと思いきや
甘い 甘い
またもや猛暑、湿気も半端じゃない