時はどんどん過ぎて行ったが、アメリカ行きのお金は一向に貯まらず、僕は新たなバイトを探さなければならなかった。そんな時同僚のミックが知人から紹介を頼まれているということで、僕は面接に行った。会社は二条城近くの染色会社だった。内容は染め上がり商品を室町筋の呉服会社への納品と、下請けの奥様方への配達と受け取りと言うことだった。
紹介がそこの事務長さんだったので、即採用となった。最初の一週間は従業員さんが同行してくれた。京都的対応は苦手だったが、お金のためなら仕方ないとあきらめて、作り笑顔でなんとか切り抜けた。もともと幼少時から「笑顔良しのあきちゃん」だから、どこの店も、どこの奥様方もすぐに快く迎えてもらうことができた。
単独での仕事が始まったその日に、事件?は起きた。車の車庫入れの時、後にあった金属製の道具にバックのガラスをぶつけてしまったのだ。この音にびっくりして隣の作業部屋で仕事中の女性が飛び出してきた。ありゃま〜!と言う感じで、すぐに箒と塵取りを持ってきて残骸をかたずけてくれた。「スミマセン・・・」「わたしに謝られても・・・事務所にゆけば・・・」たしかにその通りだ。事務長さんに報告すると、まあ、来て間もないことだから・・・ということで、何とか弁償は免れた。
二カ月ほどは無難に仕事はこなせた。給料もデパートの頃の倍近くで、これなら何とか一年以内に片道キップ位は出来るなと思った。
ある雨の日の帰り道のことだった。会社からバス停までの1キロほど、僕は濡れながら歩いていた。すると後ろから傘を差しかけてくれた人がいた。横を向くと、あの事故の時、片付けをしてくれた彼女だった。「あっ、ありがとう」彼女はニコッと微笑んだ。仕事中のポニーテールと違って、さらりと伸びた長い髪が印象的だった。話す間もなくバス停に着いたら「傘持って行ってください。わたし折りたたみ傘があるから」そう言って彼女は電車駅の方への階段を下りて行った。
バスの中で、僕は赤い傘を握りしめていた。にやけていたのだろう、向かいのおばちゃんが怪訝な顔をして見つめていた。
彼女の告白メモの最後に「どこの大学ですか?」とあって、ちょっと戸惑った。たしかにバイト仲間には大学生が多く、僕のブランクは学業のためと見られていたようだ。同志社は垢抜けしたお坊ちゃま的シティボーイ、立命館は貧乏な苦学生的イメージが定着していた。もちろん京大を目指すランボーの詩集を離さない浪人生もいたが、大方はこの二大学で占められていた。僕は正直にぷー太郎ですと打ち明けた。彼女はちょっと驚いたようだったが、すぐに安堵の表情に変わった。彼女は母子家庭で親の助けのためデパ地下でバイトとして入っているとのことだった。
僕の低速(荷物用)のエレベーターの運転と彼女の休憩がマッチするときが二人の話せるタイミングだった。呼び出しのランプが点くまでの数分間、薄ぼんやりとした地下に停めて話をした。やはり、僕の好む女性イメージは、清楚、天然、微笑みに、集約されているようだった。彼女の話は、仲間には喋らないことにした。その秘密性が彼女へのせめてもの愛情表現と思いたかったのだ。
そんなウキウキ感での生活をしているときに、伊丹の従兄弟から手紙が届いた。彼も同じ施設の後輩だった。当時はもちろんケータイも無いし、連絡方法としては郵便に頼らざるを得なかった。内容はT子さんの御主人が交通事故に遭った〜と言うものだった。その事故内容や生死を含めた状況は分からないとのことだった。僕は何とも言えない暗い谷底に突き落とされたような気持だった。確かめたところでどうにもならないことだし、かと言ってそのまま無視もできないし・・・僕は悶々とした日々を過ごした。運命の悪戯とはこういうことかと、やり場のない怒りにも似た感情が湧き上がってきた。
「人は別離によって強くなれる」と誰かが言ったが、それはそうかもしれないけれども、その当座はそこまで客観的には自分を見つめられない。わがことのように打ちひしがれた自分にオロオロするばかりだ。まるで小説のような展開に呆然とした日々を過ごした。