<< 2023/01 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

京都ラブストーリー?

 肉体労働の明け暮れで、さすがの若い身体も悲鳴を上げるほどだった。そこへ追い打ちをかけるように、起重機船の転覆や、船のスクリューの破損や潜水夫のサボタージュ等々、様々な厄介ごとが起こった。起重機船に関しては、労働基準局に呼び出されたり、船主から保証を求められたり、僕自身ではどうにもならないことが突き付けられてきた。ますます焼酎の量は増えるばかりだった。

 そんな中、今度は山口県の萩行を命じられた。全く新しいメンバーとの労働が始まった。隠岐の島でもそうだったが、飯場のおばちゃんには本当に良くしてもらった。自分の息子のように可愛がってくれた。母無し育ちの僕にとっては、まさしく母親的愛情で包んでもらった。

 それでも叔父の経営状態は好転を見ず、やがて給料の遅配が起き始めた。僕自身は食べるだけで、給料は一銭ももらえてなかった。当時から潜水夫は高給取りで、しかも海が荒れれば休むので、これが一番の悩みの種だった。そんな中、やがて僕は人質状態となり、作業はストップしてしまった。何度もの懇願の末、やっとお金が届き何とか難局は切り抜けることができた。

 こりゃあ潮時だなという考えが僕の頭を占領しはじめた。そしてついに僕は次の広島での仕事を機に、叔父に断りをして、京都へ帰ることにした。父からの言葉があったらしく、二十万円が送られてきた。松江に寄るつもりが、山陰豪雨で汽車が不通となり、僕は山陽周りで京都に舞い戻ってきた。

 二十万円で、アパートの敷金を払い、京都での一人生活が始まった。六畳一間、小さな台所、トイレ、風呂は無かったので、近くの銭湯に行った。当時は150円くらいだったと記憶している。

 働き口は、また大丸のエレベーターに戻った。そして夜の英会話学校も再開した。でも、あのステッファニー先生はおられなくて、代わりの先生はオーストラリア人の女性だった。ちょっと特有の訛りがあったが、優しく丁寧な指導だった。

 一緒にアメリカ行きを約束していたY君が連絡をしてきた。お金が貯まったので、いよいよ出発するとのことだった。大阪に会いに行くと、電気炬燵とギターを譲り受けた。僕の遠回りが一緒に行く約束を破る結果になってしまった。彼はカリフォルニアへと旅立った。

 先を越された僕は、安アパートでの寝袋生活が始まった。夏は布団もなく畳の上でそのまま眠った。ちょっとした荒波に揉まれた僕は、少々のことでは挫けない男になっていた。「なにくそ!」的精神が確立し始めていた。

 部屋のドアの大きなシルビーバルタンのポスターが唯一の慰めだった。

29.11.26-6.jpg

posted by わたなべあきお | - | -

▲page top