僕がバイトで行っていたD百貨店の従業員用のエレベーターは手動式だった。もう四十数年前の話だ。低速、中速、高速の三台があって、昔の外国映画に出てくる〜あれとまったく同じだった。当然ながら扉も手動で、内側の斜め格子状の扉を閉めると可動できた。
壁付けされたハンドルを左右に回すことで、上下させることができて、手を離した中間でストップだった。問題は各階とのレベル合わせで、特に高速のは慣れるまでに苦労した。たとえば五階で停めようと思えば、四階を過ぎた瞬間にOFFにしなければ、通り過ぎてしまうという具合だった。うっかりしていると、最上階や地下にドスン!とぶつけてしまうことも度々あった。
もちろん呼び出しのランプによって移動するのだが、レベルをわざと外して停めて、女子従業員たちをキャーキャー言わせて喜ぶ先輩たちもいた。いちばん退屈だったのは低速台で、荷物用として大方は利用され、ちょっと薄暗い照明のため陰気な感じだった。
たしか三十分交代だったと記憶している。交代したら屋根裏の機械室の一角で休憩をした。機械の油臭さと、ギー・ガタン!ギー・ガタン!の騒音の中、もっぱら読書をしていた。
忙しかったのは昼食時で、定員オーバーのブザーは鳴るし、満員で通過ばかりして、中間階の人たちに怒られるし・・・それはそれは大変だった。もっと大変だったのは、催し会場の変わり目の時で、特に家具展の時はまさに戦争状態だった。物は大きいし、各業者が先を争って載せようとするし、半分けんか腰状態だった。
そんな中・・・
♪青臭い奴だと 笑わば笑うがいい
僕らの汗は 僕らだけの勲章さ
小さな肩をかすめた大きな怒りよ
もっともっと 激しく土の上を転がれ
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
いやでも ひとつづつみんな大人になってさ
だましだまされ 臆病になってきた
踏み出すことをためらう時は終わった
出航まじかの世代がもうそこまで来てる
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
新しいピアノに耳をかたむける
どこからか僕たちだけの唄がきこえる
これからあと どのくらい叫び続けよう
鍵盤に僕らの明日をたたきつけるんだ
あゝ 時代は僕らに雨を降らしてる
(長淵 剛 ・ 時代は僕らに雨を降らしてる)
♪白樺 せせらぎ 木もれ陽あびて
君と歩いたこの道 はるかな愛のわだち
空よ風よ なぜこんなにも
遠くて近い みんな過去なのに
こころの中で今も くるしくなるほど
愛しい君に また逢いたい
鳥よ川よ 夢おきざりに
生きてはゆけぬ 命あるかぎり
こころの中で今も せつなくときめく
愛しい君に また逢いたい
(奥入瀬)
脱出はスリル満点だった
脱出の先には、希望と不安が複雑に入り混じっていた
脱出の責任は、すべて自分に跳ね返ってきた
脱出に、成功も失敗もない
振り向けば、裏切りがあり無礼が山ほどあった
若さゆえ・・・で差し引いても、有り余る身勝手であった
しかし、トータルで考えても
脱出しかなかったと思う
マインドコントロールの裏面は、信じる心である
その世界に在る者は
コントロールされてるなんて、これっぽっちも思っちゃいない
抜けて・・・何年も何年も経ってから言える呪縛の恐ろしさ
その恐ろしさは、彼らにとっては正反対に救いである
どちらが幸か不幸か?
存在する側によって、両極端に判定は分かれる
♪空よ 水色の 空よ
雲の上に 夢をのせて
空よ わたしの 心よ
思い出すの 幼い日を
ふるさとの 野山で
はじめて 芽生えた
あどけないふたりの 小さな愛
空よ 教えてほしいの
あの子はいま どこにいるの
(トワ・エ・モア)
あれは・・・
春の新人戦だったろうか
それとも、近隣の中学校との練習試合だったろうか
左45度からドリブルでカットインして
相手ディフェンスを避けながら
僕は左手でランニングシュートを放った
ボールはボードに際どく撥ねて
スパッとネットに吸い込まれた
その瞬間・・・
当然と言えば当然なのだが・・・
家出息子と父親の間には
何とも言い難い
壁というか溝というか
そんなものが横たわっていて
会話もひどく他人行儀だった。
父は怒りや瞋りは言葉や行為にあらわしたが、悲しみについては言葉にも表情にもあらわさずに、いつも耐えていたと思う。わたしは父からそれを「父の像」として確かにうけとった。そしてじぶんのものにしたとおもう。それからあと父にまつわることではいつも頼もしい息子とみえるように、つとめて振る舞うようにした。気分が引っこみ、ためらいや恥ずかしさに襲われ、どうしてもそう振る舞いたくないと内心でおもえるときでも、おし切るようにして父親を悲しませないようにと積極的に行動するようにつとめた。
この悲しい父親像を通じて、わたしは「父」が広大な自然よりは、「強大な意志」だということを学んだ気がする。そして高村光太郎のように「常に父の気魄を僕に充たせよ」と願ってきたが、そんなに思い通りにはいかないで、生涯の大半を過ごしてきてしまった。
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ただもっと胸の奥をこじ開けてみれば、太宰治ではないが、白い絹の布地に何やら蟻がぞろぞろ列をなしていったあとに、象形文字にも仮名にもならないような、父としての存在の跡のようなものがのこされている気がする。それはわたし自身にも判読できない。だから、何と書かれているかということができないが、その痕跡はたしかに押印されていて、わたしが「父」であることを、何ものかに向って証明しているような気がする。(吉本隆明・父の像)
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ・・・」
雑賀小学校の第二講堂、年に何回か映画鑑賞の日があった。
六年間にはかなりの映画を観たのだろうけれど、記憶に残っているのは・・・
この「風の叉三郎」だけだ。 しかも映像よりもこの風のざわめきのような、呪文のような歌。
そして・・・
宮澤賢治に触れたのは、それから随分時を経た放浪の旅先だった。
S先生の英会話教室のメンバーに、看護婦のHさんがいた。
頭のてっぺんから声が出ているようなひとでチャキチャキ娘?だった。
帰りに喫茶店へ誘われた時、「わたし・・・フランスへ行くの」と聞かされた。
(フランスなのに英会話かよ!)と思ったが、言わないでおいた。
次の機会に「今度の日曜日、休みだから奈良へ行こう!」と誘われた。
何から何までリードされっ放しで、まるで幼稚園の先生と園児のようだった。
そんな時間あったのかと思うくらい、豪華なお弁当も用意されていて感激ものだった。
僕は、大阪に住む友人とアメリカ往きの準備中だったので、無駄遣いは許されず、ひたすらバイトバイトの連続だったから、この小旅行はちょっと心に迷いを生じさせるような出来事だった。
そのわずか数カ月後、彼女が本当にパリに出発したと聞かされて、僕はビックリ仰天だった。
オンナは強い!それはそうと・・・そもそも彼女は何を目的としてフランスへ行ったのだろうか?料理?ファッション?聞く前に行ってしまった。