「ねぇ〜、胸が痛いってことある?」
呼び出されて宍道湖の防波堤に腰かけていたとき
突然放送部の後輩の彼女が聞いてきた。
「えっ?」
僕はどう答えていいのか戸惑った。
「う〜ん・・・経験はないけど、あるんじゃないかな」
「好きなひとでもできたんか?」
彼女はしばらく黙って俯いていたが
突然立ち上がり、くるっと反対を向いて
ひらりと地面に飛び降りた。
スカートを翻したその動きの中に
「あっ、もしかして・・・」と思ったとき
彼女はもうかなり前を歩き始めていた。
何とも言えない複雑な想いが、彼女の背中に漂っていた。

君はお兄さんの強引さに屈した形だったけど
一番君のことを思っていたのは弟くんの方だったんだぜ
わかっていたかい?
僕はお姉さんの積極性に引っ張られた形だったけど
一番僕のことを思ってくれていたのは
妹の君だったんだね
僕は・・・気付かなかったよ
君が遠く東京にお嫁に行って
随分経ってから教えてくれた人がいたんだよ
世の中って・・・
そういうものなんだね

雨が降ると思い出す
仲直りの日は
いつも雨の日曜日だった
後から思えば
小さな誤解や言葉の行き違いだったのだけど
その時は
この世の終わりのような深刻さだった
周りも心も
静けさに包まれた
雨の日曜日
わだかまりが洗い流され
本来の純心が蘇った
「ごめんなさい・・・」
それだけでまた
前を向いて歩きだした
それはいつも
雨音もない
静かな静かな雨の日だった

僕自身、そんな感情を抱いたつもりはなかったのだが
「振り回された」「戸惑った」「対処不能」の場面が
あまりにも多かった。
季節の移ろいの周期なら、十分に対応できたかもしれない。
それが、「昨日の今日」とか「朝と夜」というような
心と言葉の変遷は、僕を混乱させ言葉を奪い去った。
僕の中では、「病」と結びつける要素は皆無だった。
むしろ、周りの声や評価にこそ不信を抱いていたくらいだ。
どんな症状であれ、ひたすら「聞く」ということに
僕は集中したし、僕の中で出された答えをさらに抽出して
これだという答えを言葉に託したつもりだった。
何度思ったことだろう。嘆いたことだろう。
言葉の虚しさを・・・言葉の無力を・・・
まるで自分が試されているような疑念が
湧いては消え、また湧き上がってきた日々。
「励ましては逆効果だ」という説も耳にした。
「ひたすら聞いてあげることだ」も実践した。
向き合えば向き合うほど・・・
<純>と<狂>が交錯した。
<陽>と<陰> <ハイ>と<ロー> <躁>と<鬱>
さっきの答えと全く逆のことを言葉にしている僕がいた。
僕は、そのたびに兄を思い出していた。
十分経験済みのはずだったが、十人十色百人百色が
明白な答えであり正解はどこにもなかった。
食い尽くされて、吸いつくされて
干からびた僕の残骸が
夏の終わりを告げる雨に晒されていた。

僕が21〜23歳のころ、英会話教室へ通っていた時の先生がステファニィーという名のアメリカ人女性で、個人授業も受けるほどの関係だったことは、以前にもどこかで書いたと思う。
彼女はSという日本姓があったので、ミセスというのは分かっていたのだが、その旦那が当時かなり有名な(アンダーグランド的世界ではあるが)ロックバンドのヴォーカリストだったということ知ったのは、随分と時を経て読んだ花村満月の小説の中に、その名が登場した時のことだった。(このこともどこかで書いた記憶がある)
今日、そのバンドのギタリストの訃報を目にして、改めてweb上で検索してみた。そこで分かったことは、彼女(先生)は、僕が教室をやめた翌年くらいにアメリカへ帰国したということだ。
まだずっと京都にいるのかな・・・というほのかな思いを抱き続けていたので、ちょっと落胆した自分だった。
ローリングストーンズ、スバル360、ブロンズヘアー、小学校漢字ドリル、
様々なことが蘇った。おそらく当時の彼女の取り巻きは、僕とはまったく正反対に位置する環境だったに違いない。僕がそれらしき風体をしていたとしても、それはあくまでもカジリであり、真似事にすぎなかった。ドラッグに象徴されるような危険地帯(?)に、彼女は間違いなくいたはずだ。
やや自惚れ的に言えば・・・まったく対極にいる僕という存在が、彼女には新鮮に映ったのではあるまいか?・・・と。
帰 省
「やれ、帰ったかい!暑いのを〜」
「水・・・浴びんかね」
いつ帰っても、父は必ずこう言った。
水浴び(行水)なんて言葉は、父親世代までだろう。
今なら、「シャワーでもせんか」的な感覚だな。
言われた通りに水浴びをして、扇風機の前で涼んでいると
いつの間に出かけたのか、麦わら帽子を被った父が帰ってきた。
手には大きなスイカがぶらさがっている。
「よう冷えちょうけん、食わぁや」
とにかく父はよく歩く。
バスの3〜4停留所くらいの距離はスタスタと平気だ。
長寿の秘訣は脚力・・・たしかにそうだと思う。
歩けなく(歩かなく)なったら見る見るうちに老化は進む。
しばらくすると台所で何やら音がする。
見ると、素麺を手早く湯がいてザルに移し替えている。
父は長年、義母の介護をし続けているから、何事も手際よい。
男のおおざっぱさは仕方ないとしても、ちょっと真似のできないことだ。
僕がテレビで高校野球のの中継を見ていると、父は・・・
広告チラシの裏の白いのを束ねたものに、何やら鉛筆を走らせている。
いい句が浮かんだのか・・・
久しぶりに帰った息子の横顔でもデッサンしているのか・・・
こういうところは見習いたいなぁ〜と思う。
トンボつり
宍道湖とは逆の山手の方に、小さな集落があった。
そこに同級生がいて、夏休みにはよく遊びに行った。
小川では、メダカやアメリカザリガニを捕り、田圃の畦道ではトンボ釣りをした。
狙いはもちろんオニヤンマで、ふつうのトンボを細い糸にくくって、
笹竹を振ってオニヤンマを待った。
上手く後ろに飛んで来たら、ゆっくりと地面に向かって旋回させた。
降りたところで素早くタモを被せて成功!

林の中では、セミ捕りをした。
僕は透明な羽のクマゼミが好きで、けっこう根気よく探し回った。
アブラゼミやニーニーゼミ(?)にはまったく興味がなかった。
あれは何年生の夏休みの終わりだっただろうか?
あれは小学校の低学年のころだったろうか。僕は父が勤務していた田舎の小学校の宿直の時、一緒について行って宿直室で泊まったことが何度かある。教室棟からちょっと離れた場所に用務員室があり、そこが宿泊場所となっていた。当時は用務員のひとを「小遣いさん」と呼んでいたような記憶がある。曖昧だが・・・。あるいは夫婦だったのかもしれない。晩御飯をごちそうになった記憶もうっすらとある。
夜の何時ごろだっただろうか、決まった時間に校舎の見回りが義務付けられていた。父は懐中電灯ひとつを持って部屋を出た。僕は一人で部屋に残される方が怖くて父の後をついて行った。たぶん夏のことだったんだろう、まわりの田んぼからはカエルの鳴き声が喧しかった。
父は不意に電燈を消して僕を驚かせたり、わざと怖い話をして僕の反応をおもしろがったりした。かと思うと、急に大声で歌を歌いだしたり奇声をあげたりした。(後々僕はそれらの行為を宮沢賢治的と捉えてよく思い出した)
見回りのあるとき、僕はお腹の調子が悪くなり、父に訴えた。その時の父は一緒に便所までついて来てくれて、「腹を時計回りにグルグルグルグルとゆっくり回すんだ」と言った。「もっと姿勢をちゃんとして!」言われた通りにすると、やがてお腹の中でゴロゴロしていたものが、一気に下降してスッキリとした。
似たようなことが生まれ故郷の隠岐の島へ帰る船の中でもあった。いわゆる船酔いなのだが、父は僕をトイレに連れて行き、「人差し指を喉の奥に突っ込んで下へ押してみろ!」と言った。半信半疑ながら言われた通りにすると、「オエッ!」という声とともに腹の中のものが口から飛び出してきた。「もう一度!」何回か繰り返しているうちに、もう吐き出すものはなくなってしまった。その時はどうなることやらと思えるような苦しさだったが、あとは爽快そのものだった。
僕は甲板に上がって日本海の荒波を前に、大きく深呼吸をした。

山あれば
山あれば
谷あり
谷あれば水あり
うつくしきかな
家あれば
母あり
母あれば涙あり
やるせなきかな

母を慕う
母を慕う
わが心 すなおなり
母にそむく
わが心 いがむなり
このふたつ
いつも母の姿につながり
からみあいて この年までつづきぬ
あわれにしておかし

詩集・おかさん(サトウハチロー)
<青春回帰>
大胆と繊細
奔放と常識
それら両極を有するから
絡まってあるいは交互に・・・
戸惑う僕
振り回される僕
それさえも
楽しむかのような
飛翔と墜落
心的鬼ごっこ
ちっちゃく固まっていたのは
僕で
広く大きくしなやかだったんだ
君は
そして僕は
トルネードのように
吸いこまれて行った