「ファイト!」
君の声が場内に響き渡る
メンバーが「オー!」と男勝りの声をあげる
さすが!
キャプテンは君でなきゃ!
僕は応援席で拍手をする
両手が赤くなるほどに・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
君はバスケ部のキャプテン
僕はバスケ部男子の補欠
クラスに帰れば・・・
僕は委員長
君は副委員長
なんとも微妙かつアンバランスな関係
でも・・・僕は
そのアンバランスの中に
不思議な心地よさを覚えるのだった
嫉妬
遠隔地での交通事故で、昏睡状態だった僕に速達の手紙が届いた。
眼を覚ますと、ずっと付き添ってくれていたらしい貴女は、
「お手紙よ」と差し出した。
「開けてあげましょうね」
「あら、写真よ・・・キレイな人ね・・・」
「とっても心配してくれてるのね・・・」
しばらくの沈黙の後
「この幸せ者!」
貴女は僕のおでこを人差し指で突っついた
あの時の写真が一枚もない。
あの時のどころか・・・
あなたの写真が一枚もない。
ブロークンハートを象徴するように・・・
お産のため帰省していて
僕を看病してくれたあなたは
その後数年間、横須賀から
偽名で手紙をくれた
あの時の優しい看病の心のままで
京都から博多まで
♪肩につめたい 小雨が重い
思いきれない 未練が重い
・・・・・・・・・・・・・
これは藤圭子の唄だが、男女は逆転すれど内容は一緒だった。
貴女が博多から京都まで、僕を迎えに来てくれた。
思い切って行こうと思えば行けた・・・。
婚約者だ。(父が認め約束した)
しかし、行かなかった。行けなかった。
人生に「もしも・・・」は無い。
夢物語は作れる。書きもした。(アナザーストーリー)
恋しさ半分、虚しさ半分。
半世紀という時間は、何もかも消し去るだけなのだろうか。
臨 死
僕は七回死にかけた。
一回目は自覚はない。父から聞かされた。乳飲み子のころか・・・何も飲まない、
何も食べない・・・上の三人の子と同様、父は覚悟したという。しかし、見舞客が持ってきた果物を武者ぶりつくように食べて生き返ったという。
二回目は四歳の時、釣り遊びで海に落ちた。海中で幼子ながらに死を覚悟したとき、岩場から差し出された友達の釣り竿に掴まって、僕は助かった。
三回目、ボーイスカウトの訓育会で僕たちはゲームをしていた。鬼役が目隠しをして一定の円の中で仲間を捕まえ、その名前を当てるというものだった。僕が捕まり持ち上げられて地面に落とされた。後頭部をしこたま打ち付け、気を失った。三日三晩昏睡状態だった。奇跡的に意識が戻ったが、それから十数年は過度の運動や労働をすると、後頭部に錘がぶら下がっているような痛みに悩まされた。
四回目、研修先の岡山の田舎町で、僕は先輩の運転するバイクの後部座席に乗っていた。なにせ田舎の砂利道のこと、激しくバウンドした時、僕は後方へ放り出されてまたしても意識を失った。これまた三日三晩、僕は眠る続けたらしい。その時僕の世話をしてくれた女性が、お産のため里帰りをしていた母屋の娘さんだった。付きっきりの看病をしてくれて、僕の意識が回復してから、旦那の住む横須賀へ帰って行った。
五回目、交通事故に遭った。葬式の執行長を任されたお寺へ向かう途中だった。10Mも離れていない信号を無視した形となって、僕の車は激しいサイドインパクトに見舞われ、ガードレールを突き破って、かろうじて止まった。僕は助手席まで飛ばされていた。相手の車の運転手の「死ぬ気か!」という罵声が耳に残った。運ばれた救急病院に警察官がやってきた。「ワタナベさんは?」僕が手を挙げると彼は驚いたように呟いた。「あの状況からして、もう亡くなられたかと・・・」と。
僕は帰宅後、三日三晩まったく身動きできなかった。
六回目、またしても交通事故に遭った。信号は切り替わりの時、三秒くらいの全方向赤の時間がある。それを青と認識するか赤と認識するかで事故は起こる。僕は又してもサイドインパクトを被った。この時は娘が後部座席に乗っていた。青信号と認識した相手運転手の所為で、強烈に飛ばされ、電柱にぶつかってやっと止まった。娘は足を骨折、入院となった。この事故の後、どうしても腑に落ちないことがあった。法律解釈では、僕は同乗者である娘への加害者ということで、免停三か月という結果が待っていた。これには今もって憤懣やるかたない。
七回目、仕事がらみの旅行続きで、九州一周旅行の後、アメリカへのツアーが待っていた。健康診断が必要とのことで、僕はかかりつけの医院で検査を受けた。その数日後、連絡が入り「すぐに来なさい!」とのこと。行ってみると「肝臓がらみの血液の数値が異常だ!」の答え。どうも鹿児島で食べた生牡蠣が原因らしかった。「予約してあるから、すぐに入院してください!」これには参った。社長兼事務員兼社員兼のわが身には死の宣告に等しい。僕は食い下がった。入院と同じ条件を自宅で満たしますから、入院は勘弁してください!」先生は「死にますよ!」と言ったが、しばらくして「私の言うことを全部守れるのなら良いでしょう」と。それからの三か月、点滴治療が続いた。仕事は電話、fax、仲間の援助のおかげで何とか乗り越えることができた。
リリーフランキーの「東京タワー〜オカンとボクと時々オトン〜」を見直した。
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母の葬式の時、満三歳に成ったばかりの僕を抱きあげて、父は棺桶の中の母を
見せた。意図的に・・・。「母親の想い出が何も無かったら可哀想すぎるやろう」
との思いで。その作戦?は見事なまでに成功?して、僕の脳裏にはその場面が
鮮やかにインプットされたのだった。映画の1シーンのように部屋の間取りや坐棺
の位置さえまで蘇る。大きくなったもう一人の僕が、その背後からカメラのシャッ
ターを押すかのように・・・。
父の目論んだ「三つ子の魂百まで」の本意からは少々外れているかも知れないが、
ことの結果は抜群の効果をもたらした。家なき子ならぬ本当の意味での母なき子に
ならなくて済んだのだから。僕が未来の世捨て人的人間に成ったのは、この瞬間が
あってのことだ。叔父が成人した僕に言い放った「おまえは世捨て人みたいな奴だ
な」の言葉は僕にとっては最大の誉め言葉なんだ。だって、僕はいつだって母と共
にいられるのだから・・・。
忘れしゃんすな
テレビに映し出される港風景、何気なく観てしまうが、僕にはそれなりの感傷も
ある。僕が幼いころ、生まれ故郷の隠岐の島は、まだまだ岸壁施設が整ってはおら
ず、大型船は湾に入ってくると、その真ん中あたりで停まり、陸から迎えの手漕ぎ
船が行って、客と荷物を降ろすという状態だった。父のすぐ下の弟の叔父さんが、
その回漕店を営んでいて、僕の兄も一時期お世話になった。
昼間や海が凪いでいる時は、ちょっとした風物詩的趣があったのだが、深夜や時
化の時はかなりの難行であったようだ。稀に人や荷物が海中に落ちてしまったとい
う話も聞いたことがある。夜中着の場合は、湾に入ってきたところでボーー!と
汽笛が鳴って、仮寝の布団から抜け出して作業に取り掛かると聞かされた。
そうした時代の十数年後、僕自身がそれに関連した波止場づくりの仕事で帰郷
するとは思いもしなかった。これも縁というものだろう。超大型船ですら接岸できる
ほどに整った港町に、もう昔の面影はない。船が離れるとき、隠岐民謡の「しげさ
節」が流れ、別れのテープが舞う光景は、昔では考えられないことだ。
♪忘れしゃんすな 西郷の港 港の帆影が 主さん恋しいと 泣いている・・・
教 師
僕には運命づけられたものがあった。それは「教師」。父も、母側の叔父二人も叔母も従兄も・・・ほとんどが先生一家だった。我が家では、その筆頭だった兄が心の病で脱落してしまったので、当然のように僕にその順番が回ってきた。
中学校入学の時、同じ学校に父が赴任してきて、僕は何とも息苦しい三年間を過ごすことになってしまった。高校入試の願書提出の時、僕が「工業高校、建築科」を志望したら、担任が「とんでもない!君は松江南高校へ行って、教育大学に進まなければ!」と言って拒否された。先生方や同級生たちの目があるから、優等生を演じる自分がいて、中学の三年間は精神的監獄みたいなものだった。
高校入試はかなりの高得点で、県下でも何十番とかで合格した。知る立場にあった父がそう教えてくれた。
しかし、人生の流転とはまさにこのことで、それからの七年間、怒涛の荒波が待ち構えていた。
アナウンサー
今思えばの話。小学生の時、僕の未来は見えていた。僕の通っていた小学校が
当時、視聴覚教育のモデル校となり、真新しい放送設備が完備された。そして
放送部なるものが出来て、僕は技術部門ではなく、アナウンサーに選抜された。
皆が給食を食べている時、「みなさん、こんにちは!今日は○○の話題をお届け
します。」とやっていた。
担任の先生の推薦であったそうだが、同学年の生徒が500人以上もいる
団塊世代、その中での選抜は今でも不思議に思っている。これまた学校の推薦
もあって、NHK松江放送局で色々と放送のイロハを教えてもらった。あれは
夏休みであったろうか、放送教育の全国大会なる催しがあって、全国から沢山
の先生方が来られた。僕は女の同級生と一緒にバスに乗り込み、出雲地方の
名所の案内役を任された。バスガイドさんが優しい眼差しをくれたことを、
今でも懐かしく思い出す。この経験を踏まえると、僕の将来はアナウンサー
だったのかもしれない。
中学に入って最初の国語の授業の時、先生からいきなり「ワタナベ、1ページ
目、読んでみろ!」と言われて、草野心平の詩を大きな声で読んだ。「瑞々しい
けやきの若葉を透いた光が・・・」先生は瞑目して聞いていた。しばらくして
「うん!<間>がいいな・・・その<間>がいい」と独り言のように呟いた。
僕はアナウンスの経験が生きているなと思った。誇らしくもあった。ニュース
を読む時と同様、目は二、三行先を読んでいるのだ。
もし、此処を人生の出発点と位置付けるほどの立志があったなら、僕は間違いな
くNHKかどこかのアナウンサーに成っていたであろう。
処女性
少々危険な領域の話なんだが、僕の青春時代を語る上では欠かせない領域なの
で、何某かの恥も覚悟の上で書き記しておこうと思う。まず自身の衝撃(感動)か
ら言えば、新婚初夜の明くる朝、ホテルベッドの真っ白いシーツの上の赤い一点を
見た時、ちょっと表現のしようのない感慨と言うか、いい意味でのショックを受け
た。
そんな僕が数年後、まったく異質な角度からの処女性を突き付けられることにな
った。それはこのカテゴリーのどこかで書いた、引っ越しを手伝った勤めていた会
社の同じ課の女の子から、「自分の誕生日に外で逢ってください」という申し出を
受けたことだ。彼女は五つも年下で、まだ成人前のいわば妹のような存在だったの
だが、持ち前の明るさと勝気な一面が、僕を少々混乱させた。そして<外で逢う>
という言葉に含まれたものに僕の心は少々どころか大いに悩まされたのだった。
ここで僕の心の中にある<処女性>がズンとのしかかってきたのだった。彼女は
もちろん僕の結婚も知っている。そして近い将来、彼女も結婚することだろう・・
という状況下での話である。僕が古い?男なのか、彼女が進んだ女性なのか?
青春の思い出に!という割り切りが理解できなかった。いやそれ以上に、大好きな
人に捧げたい!という女心が、受ける側の僕としては理解不能だったのだ。
後に話せば、周りの男どもは、ラッキー!とかうらやましい!とかいうシチュエ
ーションらしいが、僕にはとんでもない重圧としてのしかかってきたのだった。
結論から言えば、僕は彼女の誕生日祝いの食事をして、彼女からすれば屈辱的な
僕自身からすれば最後の砦を守り、その夜を終えた。具体的言葉にこそしなかった
が、「処女性を大事にしろよ」の思いを込めた結末のつもりだったのだ。もう一つ
加えれば、亡き母の天の声が、僕の精神と肉体を強烈に制御したのだった。時代の
差とは言え、母は18歳で父に嫁いだわけだが・・・。
半年後、彼女は退職した。同時進行とか時間のずれまでは聞かなかったが、彼と
の結婚のため。送別会となった会社の新年会で彼女とデュエットした。いかにも意
味深な「青春時代」。♪青春時代の真ん中は 胸にとげ刺すことばかり・・・
新人研修の一環として、僕たちは離島に派遣された。
たしか一週間くらいだったと思う。それぞれの新人に補佐的に先輩たちが
同行したのだが、僕担当の人は彼女だった。選別者がどれだけの密度を
察知していたかは知らないが、明らかに意図的な配属だった。
どこまでも広がる水平線・・・
二人で小舟に寝転んで見た満天の星空・・・
淡く、純粋なスタートラインだった。
♪・・・あなたがいつか
この街離れてしまうことを
やさしい腕の中で
聞きたくはなかった
まるで昨日と同じ海に波を残して
あなたをのせた船が
小さくなってゆく