ナイチンゲール
心的原因と思われる
僕の異変に気付いたあなたは
「私が治す!と宣言した
「必ず治す!」と。
看護服も勇ましく
野戦病院を開設したのだった。
ブルーメの丘
あなたと初めて逢ったとき
あなたはまだあどけない小学生で・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪いたいけな眼差し 投げ続ける君は
ひたむきな心を 隠そうともしない
変わらない憧れを 背中に映し
逢うたびに君は 美しくなる
限りなく青くさい 君の夢を
裸になって抱き 抱きしめたい
移ろいの多さに かすり傷を恐れ
誰となく心に壁を立てる中で
かげりない輝きを背中に映し
逢うたびに君は 美しくなる
ためらいも疑いも 君の夢に
地平こえて飛び飛び散ってく
気負わずに熱い 君の足音がはずむ
さわやかに熱い 君の歌声がひびく
・・・・・・・・・・・・・・・・
再会の時
あなたは流転の時を重ね
その重い空気を必死に跳ねのけようとしていた
しばし羽を休める瞬間として
ブルーメの丘に遊んだ
永遠の片想い
これは高校の還暦同窓会でのスナップ写真
彼女は中学三年生の時、同じクラスで
僕が委員長、彼女が副委員長
クラブはどちらもバスケ部だったが
彼女はキャプテン、僕は補欠
彼女は教師に、そして同級生と結婚
僕は・・・・・・・・・・
永遠の片想い
😢😢😢
そして・・・
「歌は世につれ 世は歌につれ」と言うけれど
伊勢正三の「22才の別れ」は、まさしく僕の実体験と重なりが多く
懐かしい・・・というよりは、切なさがこみあげてくる。
今でも・・・。
♪あなたに さようならって
言えるのは 今日だけ
明日になって またあなたの
暖かい手に 触れたらきっと
言えなくなってしまう
そんな気がして
・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕が22才だったから、あなたは27才だった
あなたの周りの急き立てるような圧力が
あなたの心を追い込んでいった
・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪私には鏡に映った
あなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった
幸せにすがりついてしまった
・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたは、まさに意を決して、はるか博多から京都へ
僕に会いに来てくれたわけだが・・・
一緒に行こうと思えば行けた
あの映画「卒業」の逆バージョンのように
一緒に汽車に乗ってしまうこともできた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪今はただ5年の月日が
永すぎた春と言えるだけです
あなたの知らないところへ
嫁いで行く私にとって
ひとつだけこんな私の
わがまま聞いてくれるなら
あなたはあなたのままで
変わらずにいて下さい
そのままで
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まったく同じフレーズを残して
あなたは夜明けの列車に乗った
「あなたはあなたのままで、変わらずにいて下さい」
スポーツ界でも芸能界でも、あらゆる分野で、様々なハラスメントが報じられる。
言葉こそ現代っぽいが、これは昔からあったことであり、「鍛える」とか
「しごき」とかいう言葉に隠されていたが、全くのハラスメントそのものだった。
高校二年の時、校内でも有名な教師が僕のクラスの担任となった。
僕は家庭内の複雑な事情もあって、ほとんど勉学に励めない状況下にあった。
そんな時、僕は職員室に呼び出された。開口一番いきなり怒鳴りつけられた。
そして・・・
「お前は、今の成績はサッパリだが、どういうわけか(?)入試の成績が
やたらと良くて、現在トップ50にぶら下がっている(?)これからどうする
つもりなんだ!もう大学入試は始まっているも同然なんだぞ!」
僕は言葉を返す気力もなく黙っていると、「壁にむかって立っとれ!」と
怒鳴りつけられた。他の先生方が憐みの目を向けていた。
それから数か月間、僕は登校拒否状態になった。
あなたとのキーワードを問われたら
「クシコスの郵便馬車」と答えるでしょう
逆に僕が問われたら
「みどり」と答えたいところですが
なぜか「花のまわりで」と答えたくなるのです
あなたのハーモニカ演奏に惹かれました
大勢の合奏団なのに、あなたはひと際輝いていた
顔の半分もあるかのようなハーモニカ
半音絡みの上下操作がとても巧みでした
合唱団の僕のソプラノはどうでしたか
何の歌でもそうですが
実のところ僕はアルトの音階が好みでした
引き立て役っていうのが性に合っているのでしょうね
それはこれまでの人生でも引き継がれています
役者で言えば「脇役」です
小生意気ですが名脇役的存在でありたいのです
小学校はずっと同じクラスで
委員の学期も同じでしたね
そして高校三年生でまた同じクラスになりました
でも・・・ハーモニカのことなど
あなたはまったく覚えてはいないでしょうね
僕は小学生の六年間で
人生の凝縮版を演じきったような気がしています
自衛隊のヘリコプターに
僕はなぜ全校の代表で乗ったのでしょう?
秀才君はたくさん居たのに・・・
放送部アナウンサーとしてのコメントが求められたのでしょうか?
大山への遠足の写真で、僕の真後ろにいる笑顔のあなた
あれは偶然だったのでしょうか
思い出せば・・・あなたからのプレゼントをもらった時の失態が
大きなだピリオドになったと悔やまれます
あの鈍感男は、その後もずっと健在?です
「そのガキっぽさがイイ」なんて人は、もう一人もいないと思います
「還暦同窓会」がチャンスと思い、帰郷しましたが
なぜかあなたは欠席でした・・・
ふたりの「あきちゃん」の思い出話です
「ファイト!」
君の声が場内に響き渡る
メンバーが「オー!」と男勝りの声をあげる
さすが!
キャプテンは君でなきゃ!
僕は応援席で拍手をする
両手が赤くなるほどに・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
君はバスケ部のキャプテン
僕はバスケ部男子の補欠
クラスに帰れば・・・
僕は委員長
君は副委員長
なんとも微妙かつアンバランスな関係
でも・・・僕は
そのアンバランスの中に
不思議な心地よさを覚えるのだった
嫉妬
遠隔地での交通事故で、昏睡状態だった僕に速達の手紙が届いた。
眼を覚ますと、ずっと付き添ってくれていたらしい貴女は、
「お手紙よ」と差し出した。
「開けてあげましょうね」
「あら、写真よ・・・キレイな人ね・・・」
「とっても心配してくれてるのね・・・」
しばらくの沈黙の後
「この幸せ者!」
貴女は僕のおでこを人差し指で突っついた
あの時の写真が一枚もない。
あの時のどころか・・・
あなたの写真が一枚もない。
ブロークンハートを象徴するように・・・
お産のため帰省していて
僕を看病してくれたあなたは
その後数年間、横須賀から
偽名で手紙をくれた
あの時の優しい看病の心のままで
京都から博多まで
♪肩につめたい 小雨が重い
思いきれない 未練が重い
・・・・・・・・・・・・・
これは藤圭子の唄だが、男女は逆転すれど内容は一緒だった。
貴女が博多から京都まで、僕を迎えに来てくれた。
思い切って行こうと思えば行けた・・・。
婚約者だ。(父が認め約束した)
しかし、行かなかった。行けなかった。
人生に「もしも・・・」は無い。
夢物語は作れる。書きもした。(アナザーストーリー)
恋しさ半分、虚しさ半分。
半世紀という時間は、何もかも消し去るだけなのだろうか。
臨 死
僕は七回死にかけた。
一回目は自覚はない。父から聞かされた。乳飲み子のころか・・・何も飲まない、
何も食べない・・・上の三人の子と同様、父は覚悟したという。しかし、見舞客が持ってきた果物を武者ぶりつくように食べて生き返ったという。
二回目は四歳の時、釣り遊びで海に落ちた。海中で幼子ながらに死を覚悟したとき、岩場から差し出された友達の釣り竿に掴まって、僕は助かった。
三回目、ボーイスカウトの訓育会で僕たちはゲームをしていた。鬼役が目隠しをして一定の円の中で仲間を捕まえ、その名前を当てるというものだった。僕が捕まり持ち上げられて地面に落とされた。後頭部をしこたま打ち付け、気を失った。三日三晩昏睡状態だった。奇跡的に意識が戻ったが、それから十数年は過度の運動や労働をすると、後頭部に錘がぶら下がっているような痛みに悩まされた。
四回目、研修先の岡山の田舎町で、僕は先輩の運転するバイクの後部座席に乗っていた。なにせ田舎の砂利道のこと、激しくバウンドした時、僕は後方へ放り出されてまたしても意識を失った。これまた三日三晩、僕は眠る続けたらしい。その時僕の世話をしてくれた女性が、お産のため里帰りをしていた母屋の娘さんだった。付きっきりの看病をしてくれて、僕の意識が回復してから、旦那の住む横須賀へ帰って行った。
五回目、交通事故に遭った。葬式の執行長を任されたお寺へ向かう途中だった。10Mも離れていない信号を無視した形となって、僕の車は激しいサイドインパクトに見舞われ、ガードレールを突き破って、かろうじて止まった。僕は助手席まで飛ばされていた。相手の車の運転手の「死ぬ気か!」という罵声が耳に残った。運ばれた救急病院に警察官がやってきた。「ワタナベさんは?」僕が手を挙げると彼は驚いたように呟いた。「あの状況からして、もう亡くなられたかと・・・」と。
僕は帰宅後、三日三晩まったく身動きできなかった。
六回目、またしても交通事故に遭った。信号は切り替わりの時、三秒くらいの全方向赤の時間がある。それを青と認識するか赤と認識するかで事故は起こる。僕は又してもサイドインパクトを被った。この時は娘が後部座席に乗っていた。青信号と認識した相手運転手の所為で、強烈に飛ばされ、電柱にぶつかってやっと止まった。娘は足を骨折、入院となった。この事故の後、どうしても腑に落ちないことがあった。法律解釈では、僕は同乗者である娘への加害者ということで、免停三か月という結果が待っていた。これには今もって憤懣やるかたない。
七回目、仕事がらみの旅行続きで、九州一周旅行の後、アメリカへのツアーが待っていた。健康診断が必要とのことで、僕はかかりつけの医院で検査を受けた。その数日後、連絡が入り「すぐに来なさい!」とのこと。行ってみると「肝臓がらみの血液の数値が異常だ!」の答え。どうも鹿児島で食べた生牡蠣が原因らしかった。「予約してあるから、すぐに入院してください!」これには参った。社長兼事務員兼社員兼のわが身には死の宣告に等しい。僕は食い下がった。入院と同じ条件を自宅で満たしますから、入院は勘弁してください!」先生は「死にますよ!」と言ったが、しばらくして「私の言うことを全部守れるのなら良いでしょう」と。それからの三か月、点滴治療が続いた。仕事は電話、fax、仲間の援助のおかげで何とか乗り越えることができた。