この季節になると、つい口ずさむ歌がある・・・
♪僕を忘れた頃に
君を忘れられない
そんな僕の手紙がつく
くもりガラスの 窓をたたいて
君の時計を とめてみたい
あゝ僕の時計は あの時のまま
風に吹き上げられた ほこりの中
二人の声も 消えてしまった
あゝあれは春だったね
・・・・・・・・・・・・・・・
途絶える音信というものに、必要以上の探りを入れるのは如何なものかと思わない
でもないが、習性というものは簡単には改まらない。
♪僕が思い出になる頃に
君を思い出にできない
そんな僕の手紙がつく
風に揺れる タンポポをそえて
君の涙を ふいてあげたい
あゝ僕の涙は あの時のまま
広い河原の 土手の上を
ふり返りながら走った
あゝあれは春だったね
・・・・・・・・・・・・・・
床に入れば即刻眠っている
・・・ということは、まだ深刻ではないと言う事か
それとも、ホントは重大なる事態だが
生来の楽天主義がもたらすものなのか
それともまた、生来の逃避癖がもたらすものなのか
いや、溜め込まぬことは大事だよ
飽和状態になってしまった時は、
もう自分が壊れてしまった時なんだよ
兄がそうだった・・・
あの人もそうだった・・・
逃避ではなく自衛と考えよう
なかなかに・・・この自衛隊は頑健だぜ
大いなる自画自賛
人間の価値は「正義感」
これを失っちゃあお終いだ
ゼレンスキー vs トランプ
少数野党 vs 政権党
いわゆる「政治的」なヤツにはウンザリだね
絶対的とも言える正論が通用せず抹殺されるんだからね
僕の生活信条は、「何事も さりげなく さりげなく」なんだが、表面上も
心の中もまったく同じかと問われれば、もちろん「ノー」と答えるしかない。
葛藤とまではいかなくとも、一種の自己制御は働いているわけだ。
鎧兜や裃袴まで身に着けるわけではないが、それなりの身づくろいはして
いないと、丸裸では世の中歩けない。心の中の葛藤は人間形成上の必須条件
だと思っている。常に自分を客観視して修正努力を惜しまない。それでこそ
成長と言うものだろう。
一方で、世の中によく言えば<裏表の無い人>はたくさんいるけれども、
そういう人たちは、少なからず衝突を生む。建設的衝突ならむしろ歓迎される
べきものなのだろうけれども、大方は<大人の喧嘩>に発展し、けんか別れや
いがみ合いでしこりを残すことになる。
<熟視黙考>・・これは一つの鍛錬だ。そして最終結論を緩やかに<発信>する。
ここでこそ・・・さりげなく、さりげなく。
先生が、親が、そして知らぬ誰かが決めつけた、その道を歩み続けることはない
さ。あたかもその一本道の到達点を示されたからって、そこが本当のゴールとはか
ぎらないし、そこが幸せとはかぎらないさ。
跳ね返してやれ!
捻じ曲げてやれ!
鋭い刃で切り刻んでやれ!
きみの信じる道を行け!
確かでないのは分かり切っている。だから、それを確かめに行くんだろう?
君にとってのたった一人の賛同者でも、僕は応援するよ。
昔の僕と重ね見ているからね。
糸井重里氏の「独り遊び」を真似してみた。替え歌というほど大層なものではないが、歌詞のある部分を他の言葉に置換えたりするものらしい。
例えば…「悪いのは僕の方さ 君じゃない」→「悪いのは君の方さ 僕じゃない」みたいな。面白い!
「この街が好きさ 君がいるから」→「この街が嫌いさ おまえがいるから」
「きっと来てねと 泣いていた」→「もう来ないでと 怒ってた」
どんなに素晴らしい名言、卓説も
その趣旨の何分の一でもいいから
自分の中に取り込んで
実践、実行、体現しなければ意味がない
ただの物知り学者で終わってしまう
悩んでいる人に
頑張れ!頑張れ!と言ってはダメと言われるけれど
その理由がいまいち分からない
だからせめて心の中で
フレー!フレー!と旗を振る
遠い空だよ いとしい瞳
呼べどこだまは かえらない
恋は一度さ さすらい者が
男泣きして みる夢さ
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呼んでとどかぬひとの名を
こぼれた酒と指で書く・・・
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一人酒・・・
なぜか昔の唄が蘇る
なにがそうさせるのか
これを「未練」と言うのだろうか
僕が若い頃の雪は少々大雪でも、どこか楽しめるところがあったように思う。
ところがどうだ、最近ではちょっと積もったくらいで大騒ぎだ。もちろん「慣れ」もあるだろう。雪質や気温との絡みもあるだろう。どうやら今の世は、風流という言葉は欠け落ちてしまったようだ。
また警報級の雪が降るみたいだ。