今日、9月1日は防災の日
しかし、父にとっては<亡妻の日>であった
昨日(8月31日)が僕の誕生日
つまり僕の満3歳の誕生日の明くる日に母は亡くなった
父は詩集に書き残している
・・・・・・・・・・・・・・
魂はもはや歔欷(きょき)でもなく叫喚でもない
わたしはただ(おそらく)
見まもりたいだけ
生あるかぎり
そうしたいだけ
台所にいた三歳の秋夫が大きな声で
「まんまごせ」
とどなっているのを
「アレまんまごせとや」
と病にさいなまれているおのれのくるしみを瞬時忘れて口ばしった
その前後の呼吸麻痺で苦しく
しかしそのわが子の無心の叫びは
母の耳をとらえて
瞬時業病との戦いを忘れたかにみえた
ああその秋夫と
東京に
素子の嫁入りにいってきたよ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「その頃の私にとって、家は単なる寝るための場所でした。若くて野心があり
ましたから。学校で生徒を教える以外にいろいろな研究会や勉強会の活動に
携わってたんです。娘の顔をまともに見ない日が殆どという有様でした。
仕事が忙しくて家庭のことを顧みないということが、さほど非難される
時代でもありませんでしたから」
「今から考えると恥ずかしいかぎりです。自分の家で何が起きているのかも
知らないで、教育者もないもんです」
「片想い」 東野圭吾
僕の幼少期、そして小学生、中学生、さらには高校生になっても
上記小説中に出てくる家庭と酷似していた。
更に言えることは、僕の場合、三歳にして実母が居なくなったことが
致命的だった。
継母はまったくもって絵に描いたような典型的な継母だった。

人間はどれくらいの周期で生まれ変わるものなのだろう?
諸説いろいろあるようだが、そもそもまたしても人間として
生まれ来れるかどうかも分からないわけで・・・。
これはまったくの受け売り話だが・・・
遠い昔殺された魂が、この世で相手と兄弟、あるいは親子として
生まれ来て、ある段階でそのはるか過去の仇を打つ・・・
という話。なんとなく話として分かる様な気がする。
現実的報道では「家庭内殺人」とか「家庭内暴力」とかの
表現になるのだろうけど。
「魂は永遠なり」ということか。
過去のブログ
↑ここでは、「心が覚えている」と書いているが
「魂が覚えている」と書くべきだったな。
