悔しい話だが
理不尽がまかりとおるのが
世の中だ
さあ、そこでどう切り替えるか
丸ごと受け入れはしないさ
またしても、なにくそ!だな
釈尊の説かれた「無常」の真理とは、「この世ではいつ何が起るか分からぬ」
ということです。それ故我々は、この「無常」の大法を常に心して、何が
起こっても驚かぬようにしなければならぬ。それでもイザ現実にぶつかった
となると、動揺を免れないがしかし根本的な動転だけはしないですむ。
森 信三
師匠に言われたことを思い出す。
人を注意する時は、何処か一ヶ所、逃げ道と言うか避難場所と言うか、
そう言う所を与えなくてはならない。
何処へも逃げ場の無い状況を作ってしまっては、
言うべきことも伝わらない。
ネズミの抜け穴とでも言うべきものだ。
表現を替えれば、
三つ注意を与えて、最後に一つでいいから、
どんな小さなことでもいいから誉める。
「だけど君の此処は良いね」というわけだ。
そうすれば、注意された点にも心が素直に向くというわけだ。
これは、逆の立場での実体験でもある。
科学技術が、時間を節約する。
しかし、そんなに急いで何処へ行く?何をする?
スローライフを叫んだのは、いつの頃だった?
たとえ孤独でも、その思いを貫いたか?
そこら辺の同世代と変わらない世間の目の中で、
己の特異性に気付くのに、随分と遠回りをしてしまった。
でも逆に、その遠回りのおかげで、
僕は自分だけの宝物を見つけることが出来た。
おそらく他人様には、そこらに転がっている石ころのようなものだろう。
寒風の中、シェラフの中で見上げた満天の星空の中のひとつ星のように。
いろんな人に逢うさ
いろんなことがあるさ
僕らの旅は果てしなく続く
知らない街で愛を見て
ふと立ち止まり
心の置き場があれば
それもまたいいさ
わずかな、せいぜい長くて百年ほどの現世なんて、永遠の過去世と無限の来世に
はさまれたサンドイッチのハムよりも薄い時間に過ぎないのだと思えば、そんな短
い現世であくせく生きている人間の命は、巨いなる者の目から見ればわれわれ人間
の目に映る蟻の生よりも、はかないものなのかもしれません。
瀬戸内寂聴
夢は喪失を受け入れるていくための儀式のようなものだ。
夢を見るということでようやく、人間はある平衡をとることが出来る。
人にはそれぞれ特権的な夢がある。