まるで「ふるい」にかけられるように、人間も残るべき人が残ってくる。
それは単に僕自身のあるいは対象者の好みとも関係性があるのだろうけれど
僕はもっと奥深い部分での<接点>が「ふるい」の網の目を決定付けていると
思う。
僕的には、僕の持つ網目は何でも留まると認識しているのだが、他人様に言わせ
れば、どうも逆に大方が透かされてしまうようだ。
それを良しとするか否かは、意見の分かれるところだが、もうこの年まで来たら
今更その網目を変更のしようがない。
逆説的に言えば、僕自身にしたって、他人様の網の目をいとも簡単に透かされて
いるのだから。
それはどんな場所であれ、フォロアー数や(いいね)の数に一喜一憂するのに
似ている。数の問題ではなくて個々の質の問題だろうと言いたい。

我が家の玄関横の小さなガーデンの植物たちへの水やりが、
僕の役目の一つなのだが、あまりの酷暑続きなので、
早朝の日陰時間にすることにしている。
ある植物学者が言っていた…「雑草という名の植物はない!」と。
そう言われてみると、「この雑草め!」と容易く引っこ抜くわけには
いかないような気持ちになる。
そもそも僕自身、とれが雑草なのかも定かではないので、
つい躊躇してしまう自分がいる。
実際、しかるべき時が来たら可憐な花を咲かせたのを見て感動した
経験があるので、そう簡単には引っこ抜けなくなってきた自分だ。
家内は見分けがつくようなので、いとも簡単にヒョイヒョイと
抜き取って行くが…。
憐憫の情とでも言おうか、ちょっと可哀想な気持ちになってしまう。
稲や野菜たちの邪魔物でもないんだから、共存させてあげれば…
なんて思ってしまう。

僕の「この部屋」は、いわばサテライトスタジオのようなものだ。
通りすがりの人が、ちょっと立ち止まって話を聞いたり、
「何やってんだろう?」とのぞき見したり、そんな場所だ。
でも人通りの多い表通りではないから、通りすがる人の数は知れている。
自分としては、そんな適当バランスのこの場所が落ち着くし好きなのだ。
でも時々、内側から外を見ていて、ハッとする人を見かけるときがある。
そんな時は、とても臆病者の僕だけど、横のドアを開けて通りに飛び出し
その人に声をかけてみる。
これはとても勇気の要る行為だが、僕はインスピレーションを大事にしたいので
思い切って声をかけてみる。
これまでの二十数年間で片手ほどの数にしかならないが、それが「感性」であり
フィーリングであり、そしてそのマッチングなのだ。

「歌は世につれ 世は歌につれ」と言うけれど
伊勢正三の「22才の別れ」は、まさしく僕の実体験と重なりが多く
懐かしい・・・というよりは、切なさがこみあげてくる。
今でも・・・。
♪あなたに さようならって
言えるのは 今日だけ
明日になって またあなたの
暖かい手に 触れたらきっと
言えなくなってしまう
そんな気がして
・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕が22才だったから、あなたは27才だった
あなたの周りの急き立てるような圧力が
あなたの心を追い込んでいった
・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪私には鏡に映った
あなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった
幸せにすがりついてしまった
・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたは、まさに意を決して、はるか博多から京都へ
僕に会いに来てくれたわけだが・・・
一緒に行こうと思えば行けた
あの映画「卒業」の逆バージョンのように
一緒に汽車に乗ってしまうこともできた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
♪今はただ5年の月日が
永すぎた春と言えるだけです
あなたの知らないところへ
嫁いで行く私にとって
ひとつだけこんな私の
わがまま聞いてくれるなら
あなたはあなたのままで
変わらずにいて下さい
そのままで
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まったく同じフレーズを残して
あなたは夜明けの列車に乗った
「あなたはあなたのままで、変わらずにいて下さい」

