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背景の記憶(297)

  知能と学歴

 僕の最終学歴は一応高卒とはなっているが、実際は高校中退が正解だと、今でも思っている。教師の父親の勤務先と同じ中学校に在籍し、窮屈極まりない三年間を過ごした。先生方や生徒たち双方の興味と注目の的で、いい加減な成績は残せなかった。10クラス500人の一学年。委員長、副委員長 × 10 で、二十番以内が認定位という暗黙のプレッシャーの中で過ごした三年間だった。特に進学を前にした三年生の時は、テストの成績上位者が廊下に張り出されたので、さらに圧力を受けざるを得なかった。

 高校受験は僕が希望した工業高校・建築科の受験はなぜか拒否(?)され、普通高校の受験となった。しかも県下で1,2を争う進学校。受験後間もなく、教師の特権と言おうか、公式発表の前に父から結果成績を告げられた。九科目800点満点で、750点台だったと言われた。然したる感慨もなく、親の面子は保たれたか・・ぐらいの感想だった。

 高校生活は、一年生の時が唯一楽しかった。父から離れられた解放感と、バスケットに打ち込める喜びで一杯だった。しかし、どこからどう漏れるのかクラスメートからは、「渡部君、ここ教えて・・・」という立場が待っていた。これにはさすがの僕も参った。僕には本当の意味での真面な学力などなかったのである。中学校の勉強は基本中の基本。それがひとよりちょっと勝っていたという程度に過ぎない。

 高校二年になって、さらに追い打ちがかけられた。校内でも超有名なスパルタ教師が担任となり、みんなは大学受験一直線の体勢に入って行った。僕はと言えば、健康診断で不整脈が見つかり、バスケは退部を余儀なくされた。そこへもってきて家庭内でのごたごたがあって、僕は父母の信仰していた宗教の施設へ入ることとなった。経緯は兎も角、勉学に打ち込める生活ではなくなってしまったのである。

 三年生への進級を前にしたころ、熱血先生に職員室へ呼ばれた。「お前はどういうわけか入学試験の成績が良くて、今、辛うじてトップ50にぶら下がっている。このままでは微妙な位置だ。どうする?国公立志望で行くのか!?」僕は自棄になったわけでは無く「就職します」と言ったら「この学校には就職コースは無い!」と周りの先生方がびっくりするくらいの大声で怒鳴られた。「では、私立文科系でお願いします。」「それでは2ランクも下のコースだぞ。耐えられるのか!?」
「はい、それで結構です」

 三年生になると、実際周りからは好奇の目で見られた。「なんでアイツが・・・というわけである。しかし、他方で教え込まれた宗教的思索がそれを凌駕し、なんとも感じないようになっていった。今思えば強烈なマインドコントロール下にあったわけだが、心の比重が逆転すれば、世の中のすべての事象が逆転して考えられたわけである。

 元同レベルの賢者たちは東大合格者が二桁に迫り、ほとんどが国公立へ受かった。僕は父親の強いた大学の試験は白紙答案で意思表示をし、宗教施設で、布教師の卵として出発を期したのだった。

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背景の記憶(296)

 19歳の夏

 原爆ドームを川向うに見る四畳半のアパートで暮らした。台所もトイレも共同。

もちろん風呂などない。僕の中には、極貧とかひもじいとか云うような意識は全く

無かった。反対に修行とか鍛錬とか云うような高尚な意識も無かった。ごく当たり

前のこととして受け止めていた。

 まさに原爆投下の八月、水ばかりを飲んで暮らした。木陰をクーラーのように感

じ、三十円のアイスキャンディーが宝石のように思えた。陽炎の揺らめく電車道を

夢遊病者のように歩き。キラキラと輝く太田川の川面に引き込まれるような錯覚を

覚えた。電車賃もバス代も無い、ひたすら歩くのみ。流れた汗が拭く間もなく塩と

なった。

 そんなある日、父から小包が届いた。開けると白米と舐め味噌だった。まさに

天の恵み!・・・生き返った!あのままでは野垂れ死にしていただろう19歳の夏。
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