ひとの心を見つめ続ける
好きな誰かを思い続ける
時代おくれの男になりたい
…と阿久 悠は書いたが
果たしてそれは時代おくれか?
もしそれが時代おくれとしても
僕はその心を失くしたくはない
また、そうして生きて来たんだ
その想いを持ち続けるかぎり
心の中の灯は優しく燃え続ける
繁華街の人混みの中で
まるでズームアップ映像のように
君は現れた
僕は殊更レンズを覗いていたわけでもないが
まるでプロのカメラマンのシャッターチャンスのように
見事に周りはぼやけて撮られ
君だけがその中に浮かび上がっていた
顔を上げた瞬間
君はもうそこには居なくて
歩く先を追いかけてはみたが
やはりあの素敵なロングヘアーは見つからなかった
あきらめに肩を押されたと思ったら
君は僕の真後ろにいて
不思議な笑顔を向けていた
首を傾げて、腕組みをして見つめる瞳の中に
僕は吸い込まれるような衝撃を受けた
人間には それぞれリズムがある
生活そのものであれ
考え方、行動パターンであれ
他人様を自分のリズムに
無理矢理合わせさせようとして
それが叶わなかったら
「どうして?!」と来る
この時点で、僕は非通知にする
あるいは拒絶する
そもそも(友達)なる定義が
人それぞれバラバラだから…
人間には相性というものがある。
変に理論づけるわけでもなく、とにかく嫌なものは嫌なのである。
かく言う僕も、誰かさんからすれば、嫌な存在かも知れない。
人は概して、自分と共通点のある者に拒絶反応を示すと言う。
それならそれで、己を改めればいいものを、自分は自分を肯定してしまう。
大人しい人は活発型を好む。
逆に活発型人間は、物静かな人を好む。
色で言えば補色関係と言ったところか?
一緒に居て、心和む人。安心できる人。
僕は、誰かのそういう存在だろうか?
人が亡くなるってことが、こんなに自分が生きるってことに影響するのか!ってこ
とを実感したのは超久しぶりだった。
それは、僕の人生の師が亡くなられた時、本来ならば、僕は葬儀の執行長をするべ
き立場にあったのだが、葬儀の後日、言われたのは「呆然自失」状態で、何の役目
も果たせていなかった・・・らしい。
そりゃあそうだろう!人生最愛の師が、この世から居なくなってしまったのだ。
人の死には、それなりに免疫力のある自分と思っていたが、いざその場に直面
すると、我を失ってしまっていた。・・・らしい。
実母の時は、僕はまだ三歳だった。父の時は、父はもう百歳だった。
兄、姉は、一緒に暮らした期間は皆無に等しかった。
ある人から、その瞬間のことを頼まれた。「死の覚悟」と言うのか、毅然たる
言葉だった。何を隠そう・・・その人は我が師のお嬢さんだ。
死生観は、僕とまったく同じだった。
天は、引き合わせるべき人を、必ず引き合わせる。
置かれた場所の大小はあれども
世の中、まさに色んなひとがいる。
色んな奴がいる。
押し付けられた指針の中で、
呻吟する、反発する自分がいる。
しかし、敵も然る者・・・抜かりない。
そこに生まれる「逃げるが勝ち」
相撲技でもあるじゃないか
肩透かし