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「今」

 本物の仏教は、徹底して「今」を重視する。「今」 「今」
過去を知ろうと思ったら、現在の結果をみてごらん。未来の結果を知ろうと思ったら、現在のおまえがやっている事を見てごらん。」これが仏教の因果の道理である。過去や過去世を占ってもらう必要もなく、未来を占ってもらう必要もない。

「結局、今のおまえは何をやってるんだ?」ということ。徹底して単純明快ではないか。「過去に囚われるものでもない、未来を夢見るだけでもダメ。今なんだ。」と。


                                     (by seijun)

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背景の記憶(108)

「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ・・・」

雑賀小学校の第二講堂、年に何回か映画鑑賞の日があった。

六年間にはかなりの映画を観たのだろうけれど、記憶に残っているのは・・・

この「風の叉三郎」だけだ。 しかも映像よりもこの風のざわめきのような、呪文のような歌。24.2.20.jpeg

そして・・・

宮澤賢治に触れたのは、それから随分時を経た放浪の旅先だった。

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御開山会・執行長挨拶

 「法は人によりて広まる」と教えられています。私たちは、その時代時代の御導師の懸命のご教導によって、この経を持つことができてきています。その教導の核をなすのは、大尊師の御教歌、御指南であるわけですが、よく現お導師が御法門のなかで言われます・・・「これは私個人の説ではありません。大尊師がこう仰っているのです。」と。一方、「われ死んで 遠い処へ行くでなし どこへもいかぬ ここにいるぞよ」の御教歌があります。

 要は、ご法門聴聞のなかで、大尊師のお声を聴き、大尊師の御心を感得させていただくことが、その教えを心に刻み、魂に染めることに繋がると思うのです。

 随分前の話ですが・・・私が初総講で(弘通への道)を読ませていただいた時、当時の弘通本部長であった山本清剛師が書かれたその文中に<大尊師>の文字があり、横に<あなたさま>というふり仮名がありました。しかし、至らぬ私はそれを文字通り<だいそんし>と読んでしまったのです。 あとで御導師に呼ばれ、「なぜ原稿通りに読まなかったのか?筆者の心が解っていない!」と叱られました。

 何を申し上げたいのかと言いますと、馴れ馴れしいという意味ではなく、お敬いの心は十分持ち合わせた上で、大尊師をもっと身近に、直近に感じさせていただく〜ということが、先程申し上げたきちんとした受け止め方に繋がると思うのです。

 <こころそこにあらざれば 聞けども聞こえず 見れども見えず>〜これではまったく入門以前の問題です。

                                     (渡部 清山)

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