「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ・・・」
雑賀小学校の第二講堂、年に何回か映画鑑賞の日があった。
六年間にはかなりの映画を観たのだろうけれど、記憶に残っているのは・・・
この「風の叉三郎」だけだ。 しかも映像よりもこの風のざわめきのような、呪文のような歌。
そして・・・
宮澤賢治に触れたのは、それから随分時を経た放浪の旅先だった。
「法は人によりて広まる」と教えられています。私たちは、その時代時代の御導師の懸命のご教導によって、この経を持つことができてきています。その教導の核をなすのは、大尊師の御教歌、御指南であるわけですが、よく現お導師が御法門のなかで言われます・・・「これは私個人の説ではありません。大尊師がこう仰っているのです。」と。一方、「われ死んで 遠い処へ行くでなし どこへもいかぬ ここにいるぞよ」の御教歌があります。
要は、ご法門聴聞のなかで、大尊師のお声を聴き、大尊師の御心を感得させていただくことが、その教えを心に刻み、魂に染めることに繋がると思うのです。
随分前の話ですが・・・私が初総講で(弘通への道)を読ませていただいた時、当時の弘通本部長であった山本清剛師が書かれたその文中に<大尊師>の文字があり、横に<あなたさま>というふり仮名がありました。しかし、至らぬ私はそれを文字通り<だいそんし>と読んでしまったのです。 あとで御導師に呼ばれ、「なぜ原稿通りに読まなかったのか?筆者の心が解っていない!」と叱られました。
何を申し上げたいのかと言いますと、馴れ馴れしいという意味ではなく、お敬いの心は十分持ち合わせた上で、大尊師をもっと身近に、直近に感じさせていただく〜ということが、先程申し上げたきちんとした受け止め方に繋がると思うのです。
<こころそこにあらざれば 聞けども聞こえず 見れども見えず>〜これではまったく入門以前の問題です。
(渡部 清山)