相撲の世界で言う「三年先の稽古」というのは、あらゆる世界に通じる話であって
己に当てはめてみれば、初心に帰って自戒としたい言葉だ。
思い出せば、四十にして卓球を始めた僕に、中国から帰化した先生が、
数あるクラブメンバーの中でも最下段に位置する僕に、
「三年我慢できますか?」と当時まだ片言の日本語で言われた。
「はい、もちろん!」と僕は答えた。
「試合に勝つ方法は?」とか目先のテクニックを求めていた他の
クラブ員ではあったが、先生は「ナイスボール!」と言っても
その心はお世辞的であり、僕の耳にも明らかにそう聞こえた。
僕には厳しかった。何度も繰り返しやり直しのレッスンを受けた
そしてまさに三年、僕はクラブの中で中位まで力がついていた。
この時ほど、「三年先の稽古」を身を以て体験したことはなかった。
何かの記事で読んだのだが、
北欧では、いわゆる「寝たきり老人」はほとんどいないらしい。
何故か?
答えは明白、「寝たきり」になる前に死んでしまう。
残酷なように聞こえるが、どっちが本人のためか?と問われれば、
うーんと考えこまざるを得ない。
日本人の美徳と言えるかどうかは疑問だが、まだ心臓は動いているのだから…
の理由で延命処置を取ることが、果たして本人のためかどうか?という話。
僕の祖母の時にも、そんな場面はあった。その時代はそれが許されたのだろう。
病院側と親族側との「阿吽の呼吸」で、生命維持装置が外されたのだった。
果たしてそれが…という話。世話をするのが面倒だとか煩わしいとかの話ではなく、
当の本人のためを思えば…の話。
安楽死とはまた違ったレベルでの話。
世の中、誰も彼もがすべて順調であるわけではない。
むしろ、事の大小はあれ、それぞれが色んな悩み事を抱えて生きている。
それが人生というものなんだ。
要は、そこからの歩み方、対処の仕方で、方向は大きく変わっていく。
何か深刻なプライベートの問題を抱えていても、
一々人様に打ち明けられるわけでもない。
そこで、思い遣りとか憐憫の情とか援助とか生まれてくるわけだ。
僕のモットーは【何事もさりげなく】だが、独りでは抱え込めない事柄も時にはある。
その時に、どんな方法で吐き出すか、爆発を阻止するか、それが問題だ。
自分一人で抱え込みすぎると、間違いなく精神を病む、心が壊れる。
その後でどうこうしたって、手遅れのことが多い。タイミングがキーポイントだ。
家族だけを思えば、世間から見放される
自国民だけを思えば、世界から見放される
だから…と言って、家族を自国民を第二第三にすれば、国民に見放される
あのトランプだって、アメリカファーストと言っての傍若無人じゃないか
暴論と言われるかも知れないか、あの鎖国時代、日本はそれなりに平和だったじゃないか
発展、発展が、国民の幸せなんだろうか?
少々貧しくても、一日一日をつつがなく暮らせるのが幸せなんじゃなかろうか?
山中のポツンと一軒家ではないが、あれも幸せのひとつの典型的事例ではなかろうか?
世界の中の存在を意識するあまり、肝心の自国民の大多数が不幸せだったら、
本末転倒というものだ
とは言いながら、逆もまた真なりで、どちらを取るか?
そういう選挙なんだろう