「『民衆のために』といって社会主義者は動乱を起こすであろう。民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来ったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。
指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。然らば、革命とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってする事にすぎないではないか」
「たとえ私達が社会に理想を持てないとしても、私達自身の真の仕事というものがあり得ると考えたことだ。私達はただこれが真の仕事だと思うことにすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私達自身の真の生活である。
私はそれをしたい。それをすることによって、私達の生活が今ただちに私達と一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない」
「自我は伸縮する。あるときは国家とか、または人類というところまで拡大され、またあるときはその自分一個の個体においてさえ、自他の対立を見るので、人間間におけるいわゆる社会的結合は、ただこの自我の伸縮性の上にのみ保たれている。」
(金子文子)
友人、知人の中に病気に罹る人が増えてきた。
命に係わるという人も少なくない。
僕は、父の影響からか「薬毒論」者である。
熱が出たら解熱剤、痛みを伴ったら鎮痛剤、さらには
ビタミン剤、ホルモン注射・・・
対症療法的医学に殺されかねないという父の実体験に基く。
人間本来の自然治癒能力を引き出そうという試みだった。
体内から悪いもの(異物)を外へ出そうとする闘い・・・
これを病気と称して、体内に閉じ込めてしまうのは間違いで、
表面上治癒したかに見えても、体内には病巣は残ったまま
というわけだ。
しかし、この考えも過ぎると大きな落とし穴もある。
当然ながらケース・バイ・ケースということになる。
偏った宗教論ではなく
極力、異物は体内に取り込まないことだろう。
<腰骨を立てる><一汁一菜><腹式呼吸><ヨガ的運動>etc.
父から伝授されたことは、あまりにも多くて・・・
一割も消化し尽していない。
ここまで異様な(変な、怖い、血なまぐさい・・・)事件が続くと
そうなのかもな〜と思ってしまうことがある。
誰の説というわけではないのだが・・・
「末法には霊(魂)的に最下層の人間しか生まれてこない」という話
「過去世の恨みを今生で晴らす」(家族間殺人はその典型か)という話
それにしても・・・
精神的に異常であった〜で罪を問われないという法律の矛盾
正常だったら、そもそもそんなことしないわけだから・・・
いや、もちろん深い部分では理解してるんだけど
単純に納得が行かない。
歴史上・・・
「世の中が乱れた時代」とか「天変地異が相次いだ時代」とか
言われる時代は、古今東西多々あるけれど
その因果を極めることを、世の宗教者のみに託すのは
それこそ「如何なものか?」と思う僕である。