母親似(母方似)あるいは、父親似(父方似)というのは、かなり歴然と子供に現れる
もので、容姿と言わず性格と言わず、驚くほどに出てくるものである。もちろん
双方を兼ね備えた面も無くはないが……。その事が、後に子どもたちへの接し方や
思い入れにまで影響してくることを考えると、少々話はややこしくなってくる。
僕の場合、幼くして母とは死別しているから、母に関してはほとんど、いや全く
その残像はない。そのせいもあるかも知れないが、自身はいたって無個性である。
強いて言えば……個性のないのが個性なのかも知れない。加えて……
母の溺愛を受けたとか、父の訓導を受けたとかが皆無に等しいものだから、
この家出息子たる己はまるで軟体動物のようなふにゃふにゃ人間になってしまった。
世の中の荒波に揉まれて……と言えば聞こえがいいが、生きた時代性もあり、
複雑怪奇な人間が生み出されたと言っていい。
そもそも個性的とは何ぞや?
優柔不断は熟慮断行の一面ではないのか?
……と、いささか弁解染みてくる。
その反動だろうか……父に「脱出の名人」と言わしめた少年期、青年期の
自分がいる。それはかっての詩人や小説家の一面のようでもあり
まったく無謀無知な流離い人のようでもある。
表面上、落ち着いているかに見える今日でさえ、心の奥底では、またまた性懲りもなく
脱出、放棄を画策する己がいる。もちろん夢のまた夢の話だが……。
それでも心の片隅で蠢いているのは紛れもない事実である。加えて言えば……
そのさきに自死の具体的イメージが無いだけ、極めて凡人中の凡人なのかも知れない。
いつもの台詞だが……僕はふたりの自分を生きている。
心療内科医的に自己分析すれば、その微妙なバランス感覚が、
極端な衝動的アクションの防御的役目を果たしているようだ。
己よ、君は生きている。
あぁ、生きているさ。
おまえもシッカリ生きなさい。