メソッドは無能な者を掬いあげるための方便のようなものですが、メソッドで得られるものはせいぜいが並の上といったあたりの常識的な世渡りにすぎません。努力も同様です。頑張ればなんとかなるなどということをしんじているような者は敗者です。
父の念頭に社会性云々があったならば私をちゃんと通学させたでしょう。けれど父にとって学校教育など、どうでもよかったのです。ですから強制的な読書で文章が書けるようになるのかと問われれば、私の場合はそうだ、と答えましょう。脳も軀の一部であるがゆえに、筋肉と同様に負荷を与えなければ瘦せ細っていくのではないか。そんな屁理屈を胸に、私はいまでも読んで理解のできない書物を好んでひらくのです。
以前に引用したA・ジェンセンの『知能は遺伝的要因で八十パーセント、環境要因で二十パーセントがけっていされてしまう』という研究結果は実感的に正しいと感じられます。穴のあいた水瓶に水を注いでも無駄であるということです。
「父の文章教室」 花村萬月
・・・形のあるものは頼みにならない。
母はよくそう云っていた。金でも物でも、使えば減るか無くなってしまう、形のある物はいつか必ず無くなってしまうものだ。大切なのは減りもせず無くすこともできないものだ。人によってそれぞれ違うけれど、見つけようとすれば誰にでも、一つだけはそういうものがある筈だ。
「あなたの持っている才能も、このままではだめだ、もっと迷い、つまずき、幾十たびとなく転び、傷ついて血をながし、泥まみれなってからでなくては、本物にはならない」
「書物からまなぶ学問ではなく、生きた人間と、その生活です。人間と生活と、それを取り巻く世間、それが私の勉強の対象ですよ」
「人間にいちばん大切なのは逆境に立ったときだ、借銭などでいちじを凌ぐ癖がついたら、とうてい逆境からぬけ出ることはできない、どんなに苦しくとも、自分の力できりぬけてこそ立ち直れるものだ」
山本周五郎
「おれは風が向うから吹いて来て、そして吹き去ってゆくのを感じていた、そのうちふと、いま自分に触れていった風には、二度と触れることはできない、ということを考えた、どんな方法をもちいても、いちど自分を吹き去っていった風には二度と触れることはできない・・・そう思ったとき、おれは胸を押しつぶされるような息苦しさ、自分だけが深い井戸の底にいるような、真っ暗な怖ろしさに圧倒された」
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差だはない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役立ち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います。人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、そして、死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います」
「百姓も猟師も、八百屋も酒屋も、どんな職業も、絵を描くことより下でも上でもない、人間が働いて生きてゆくことは、職業のいかんを問わず、そのままで尊い、絵を描くということが、特別に意義をもつものではない、・・・私はこう思い当たったのです、わかりきったことのようですが、私は自分の躯で当ってみて、石を担ぎ、土運びをしてみてわかったのです、そうして、初めて本当に絵が描きたくなって帰ってきたのです」
山本周五郎
他者の理解とは、一つの考えを共有する、或いは、同じ気持ちになるということ
ではないだろう。むしろ苦しい問題が発生している将にその場所に共に居合わせ
て、そこから逃げないということではないのか?
果てしなく言葉を交わしながら、同じ気持ちになるどころか、逆に二人の差異が
様々の微細な点で際立ってくる。細部において自己との違いを思い知る。それが
他者を理解するということであろう。
差異を思い知らされつつ、それでも相手をもっと理解しようと、その場に居続け
ること、そこに初めて真実のコミュニケーションが生まれるのであろう。
「クラスメート」(ラガーマン・達哉)