学生だったころ、私は、書店の文庫の棚の前で随分長い時間たっていた。その時間を合計すれば、何十日分にも相当しそうである。「あれを読もう」と最初から目星をつけて文庫本の並ぶ棚に歩み寄ったことは、ほとんどない。何を読もうかと背表紙を眺め、手に取り、書き出しの数行を読み、解説に目をとおし、ためらってためらって、別の文庫本に目を移す。そのときの、何を読もうかと迷う私の目は、おそらく青春時代における最も気概と熱気と冒険心に満ちたものであったろう。私という汚れた人間が、唯一、澄んだ目を輝かせる場所は、文庫本の棚の前であった。私は、それを思うと、貧しかった当時の、いろんないやな情景などどこかに押しやって、ああ、贅沢な青春だったなと感謝する。文庫本というものがなければ、私は世界の名作に触れることなく、何が真のミステリーであるかも知らず、何を人生の不思議言うのかも学ばず、猥雑な大人の群れに、よろよろと加わって行ったに違いない。(1986.7)
宮本 輝
A sound mind in a sound body.
〇人間は心身相応的存在ゆえ、性根を確かなものにしようと思えば、
まず体から押さえてかからねばならぬ。意識は瞬時に変転する故
持続性を養うには、どうしても身体から押さえてかかる外ない。
しかも体の中でいちばん動かぬところは、結局胴体であり、しかも
その中心が腰骨である。それ故、二六時中この「腰骨を立てさす」
以外に、主体的な人間をつくるキメ手はない。
森 信三
〇いやしくも、この世に生をうけた以上、それぞれの「分」に応じて一つの
「心願」を抱き、最後のひと呼吸まで、それを貫かねばならぬ。それには、
朝起きてから夜ねるまで、極力「腰骨」を立てつづける。これがわれわれ
人間にとって性根を入れる極秘伝。
〇腰骨を立てるには次の三段階を心して。
第一、尻を思い切り後ろにつき出すこと。
第二、反対に腰骨をウンと前へ突き出す。
第三、下腹に心もち力を入れると肩のキバリがスキッととれる。
そして、二六時中こうしていないと、気分がダラケて気色が悪いと
思うようになればまずまずという処。
「不尽片言」 森 信三 述 寺田清一 筆録