ふと…口ずさむ歌がある
人間の幸せ感は
そんなところに宿る
♪寒い夜ふけは お酒を買って
たまのおごりと はしゃぐ姿に
きめた きめた
おまえとみちずれに…
懐かしいもの
それは公衆電話
たとえ街中であろうと
透明な箱の中という
ひとつの独立した世界
そこに意義がある
携帯社会とは異質の空間がある
話し中の静寂や吐息
あれは何ものにも代えがたい
あれは小学生のころだったろうか
小川のせせらぎに
清らかな願いを込めた
小さな笹舟を浮かべて
手を合わせた
通う心もなしに
いったい人と人は
どうやって繋がることができるのでしょうか
目と目を見合わせただけで
心の通い合うような
友達が数人いたら
それで僕は充分幸福だと思います
空は抜けるように青く澄みきっている。
しかし、風は冷たく肌を刺す。
ジェット機が雲を引かずに、音だけを残して飛び去って行く。
たしかにあの雲の流れでは…と不確かな自説に納得してみせる。
ふとあの貿易センタービルの画面が蘇る。
突っ込むジェット機、立ち上る白煙…まるで無声映画のようなあの場面。
現場と傍観の冷酷極まりないコントラスト。
似たような事象が世界のあちこちで起きているというのに、なんと非情な客観視だ
ろう。
その意味においては、日本は平和であろう。しかし、惨禍のなかで見る彼らの夢や
希望には、僕らのそれはこれっぽっちも及はないはずだ。
どっちが人間的と言えるのか。どっちがまさに生きていると言えるのか。
詩的な感覚が政治的なきな臭さにおきかわり、戦場の子供たちの瞳に呼応して、
胸の中で流離い人の子守唄が流れる。
あぁ、せめて三年前に逢えていれば…なんてことは、よくあるわけで。時の悪戯は容赦ない。
でも、人生に「もしも…」は無いわけで、現実を受け入れるしかない。
無理してその仮想の中に生きようとすれば、現実の歯車は狂いだし、その方向性は定まらす、時に空中分解も引き起こす。
それでも…しかし、空想の作り出すドラマが、現実の自分に劇的な変革をもたらすこともあるわけで…。
夢や空想の中で、半分以上生きているに等しい僕としては、そこらの物差や計りは持ってきてほしくないのです。
夢で逢いましょう。夢で語りましょう。夢でそのまた先を紡ぎましょう。
「非日常」の「日常化」はキツイ!・・・と感じる。
例えば、嫁の立場としての旦那の父あるいは母の介護。
それでなくても厳しい局面もあるのに、加えて「介護」となれば事は深刻だ。
加えて「痴呆」が絡めば、負担は倍化どころか想像を超える。
わが身に置き替えてみて、せめてそういう立場にならないでいようと思う。
何らかのお世話にはならざるを得なくなるだろうが、少なくともボケないで
いたい。いやいやその前に老々介護の方が現実的課題だ。
歌の文句じゃないけれど・・・
辛くても 辛くても 死には(いや待った!)
辛くても 辛くても ボケはしないわ
たとえ就寝前の五分間でもいい
あるいは、眠りについた夢の中ででもいい
自分だけの時間を持ちなさい
誰にも邪魔されない・・・自分だけの時間を
でないと・・・
あなた自身が潰れますよ